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私的な闘いだったのか、王権簒奪を防いだのか?

聖徳太子の死にまつわる謎㉔

■中大兄皇子と蘇我氏の対立の意味合い

継体天皇由来『日本史蹟大系. 第2巻』熊田葦城著(平凡社)より 国立国会図書館蔵 

 孝徳天皇は、蘇我の血が薄かったにもかかわらず、蘇我系皇族や親蘇我派の豪族が眠る磯長谷(大阪府南河内郡太子町・河南町・羽曳野市)の古墳群の中に葬られている。 
『扶桑略記』には、上宮王家滅亡事件に際し、若き日の孝徳天皇が、入鹿側の軍勢に混じっていたという記録が残されている。この時の将軍は巨勢徳太古なのだが、孝徳朝では、重臣として取り立てられている。 
 孝徳天皇の立場については、のちに詳しく触れるが、孝徳天皇と中大兄皇子の関係が、あまり密ではなかったこと、中臣鎌足にいたっては、孝徳政権下でほとんど活躍していない。そうなると、はたして孝徳朝で断行された改革事業を、いったい誰が主導していたのか、大きな疑念が生まれるのである。それは、『日本書紀』のいうように、 中大兄皇子や中臣鎌足の業績だったのだろうか。そうではなく、むしろ蘇我氏こそ改革派で、蘇我入鹿→孝徳天皇へと継承された事業が、大化改新ではないかと、筆者は勘繰っているのである。 
 そうはいっても、入鹿は聖徳太子の死後傍若無人な行動を繰り返し、私利私欲に惑わされていたと『日本書紀』が記すほどの人物である。そんな入鹿が、はたして国の近代化のために努力したかという疑問がわくのは当然だろう。 
しかし、朝廷は『日本書紀』の入鹿暗殺場面で、このクーデターの理由をもっぱら入鹿の専横に求め、律令制度のためとは一言もふれていない。この事実はまさしく注目に値する。 
 そこで、この場面を再現すると、次のようになる。 中大兄皇子に斬りつけられた入鹿は、皇極天皇に「私にどのような罪があるのか」と叫んだ。女帝は「このようなことは聞いておりませぬ」と答えると、息子である中大兄皇子に向かって「これは何事ですか」と責めたてた。 
 すると、中大兄皇子は次のように答えた。 「蘇我入鹿は皇室を滅ぼそうとしているのです。どうして王位を入鹿に代えることが 許されましょうか」 
また、大化三年(一六四)正月の条には、入鹿暗殺は、入鹿の「君臣」の序列を無視した勝手なふるまいに対する朝廷の憤激と危機感のため、と記されている。このように、『日本書紀』は入鹿暗殺の理由に、律令制度導入という大義名分を挙げていない。 
 見方を変えれば、乙巳の変は、中大兄皇子と蘇我氏の間の私的な闘いであった可能性をも含んでいるのである。 
(次回に続く)
 

〈『聖徳太子は誰に殺された?』〉より

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関 裕二

せき ゆうじ

 



1959年生まれ。歴史作家。仏教美術に魅了され、奈良に通いつめたことをきっかけに、日本古代史を研究。以後古代をテーマに意欲的な執筆活動を続けている。著書に『古代史謎解き紀行』シリーズ(新潮文庫)、『なぜ日本と朝鮮半島は仲が悪いのか』(PHP研究所)、『東大寺の暗号』(講談社+α文庫)、『新史論/書き替えられた古代史』 シリーズ(小学館新書)、 『天皇諡号が語る 古代史の真相』(祥伝社新書)、『台与の正体: 邪馬台国・卑弥呼の後継女王』『アメノヒボコ、謎の真相』(いずれも、河出書房新社)、異端の古代史シリーズ『古代神道と神社 天皇家の謎』『卑弥呼 封印された女王の鏡』『聖徳太子は誰に殺された』『捏造された神話 藤原氏の陰謀』『もうひとつの日本史 闇の修験道』『持統天皇 血塗られた皇祖神』『蘇我氏の正義 真説・大化の改新』(いずれも小社刊)など多数。新刊『神社が語る関東古代氏族』(祥伝社新書)



 


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  • 2015.07.18