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明智光秀、接待役は殺しの許可証?

季節と時節でつづる戦国おりおり第477回

光秀が安土から去った後、十九日に信長が家康を招いて能見物をおこなった摠見寺の跡。翌日、同じく城内の高雲寺御殿で家康を接待。

 今から439年前の天正10年5月15日(現在の暦で1582年6月5日)、徳川家康が安土城に到着。明智光秀が饗応役として応接しました。

 家康は甲斐の武田氏を滅ぼす織田信長の作戦に従軍し、その功績で駿河一国を与えられたことへの礼参のため安土に上って来たのです。

 これについて、5月14日に公家の吉田兼見が「徳川安土に逗留の間、惟日在庄の儀、信長より仰せ付けられ、この間馳走以ての外(もってのほか)也(家康の安土滞在のため明智光秀に対して安土に駐在するよう信長から命令が下され、その期間内は(家康に)ケタ外れの馳走が振る舞われた)」と日記に書いているように、かなり以前から信長は光秀に接待役を命じています。

 そして、家康が到着した5月15日(旧暦)、兼見が「もってのほかの馳走」と記した光秀の大接待がスタートします。

『信長公記』ではこの経緯を「五月十五日、家康は番場(近江国米原にあるかつての宿場)を出発し、安土に到着。大宝坊を宿所とせよとの信長公のご指示により、接待役は光秀に命じられた。(光秀は)京都・堺にて珍しい物を調達し、おびただしき結構に於いて、十五日より十七日までの三日間饗応がおこなわれた」と記録しています。

 大宝坊は安土城下の寺院でしょう。その境内に凄く大規模で贅沢な造りの屋敷を新たに建て、京・堺の珍しい物品で飾り立て、この日から3日間のスーパーおもてなしが繰り広げられたのです。

 光秀がどんな接待をおこなったか、その全ては把握できませんが、提供した料理については「天正十年安土御献立」(『続群書類従 第23輯下 武家部』)という記録が残っています。メニューの詳細は割愛しますが、酒は下戸だったという信長らしさなのか最初の乾杯「式三献(しきさんごん)」こそ見られないものの料理自体は本膳に始まって二の膳・三の膳・四の膳・五の膳に至る本格的な武家礼法に基づく「本膳料理」。これが三日間続きましたが、最終日の17日、光秀は急遽本拠の坂本へ戻ります。

 信長が、備中高松城攻めに従事している羽柴秀吉から毛利軍出撃の報を受け、増援部隊を派遣して自らも親征すると決めたからです。

 光秀は領地で出陣準備に取りかかりましたが、半月後に軍を発した光秀は、中国方面ではなく京の本能寺を目指し、信長を討つ事となりました。

 この光秀の謀反、現在有力なのは、彼が土佐の長宗我部元親の取次役だったのに、織田信孝・丹羽長秀に四国攻めの司令官の座を奪われた事が原因とする説です。

 たしかにそれもあるかも知れませんが、果たしてそれだけでしょうか。

 小生は徳川家康の接待役の任を解かれた事もその一因ではないかと思います。

 といっても、昔からよく言われる、「信長が光秀の接待内容に不満を持ってお役ご免にしたのを恨んだ」などというものではありません。

 家康接待というのは、あるいは家康に対する取次役に準ずる役目だったのではないか、と思うのです。

 織田家側で徳川家康の取次役を務めた者というと、清洲同盟締結の際に働いた水野信元や滝川一益が思い当たりますが、信元は7年前に処刑され、一益はこの年「関東管領」相当の職に任じられて現地赴任中(あとは信長側近衆が合戦などの都度「取次」に走っていますが、これは単なる連絡役です)。

 取次役というのは、取次相手との関係が決裂すると、その攻略の司令官となる役回りでもありますから、どちらにしても相手の内情に精通していなければ務まりません。

 接待役というのも、これだけ大がかりに織田家の威信をかけたものともなれば、取次役同様の重みを持つわけですし、これも相手の内情に精通していなければ到底成功できないでしょう。

 ところが、光秀は饗応の最終日が満了する直前にその任を解かれました。二十日に家康を安土城内の高雲寺御殿に招いた信長は「忝く(かたじけなく)も信長公御自身御膳を居ゑ(すえ)させられ」(同書)と、自身で接待役の先頭を切っています。これは、光秀の急な罷免によって家康接待の円滑な進行ができなくなってしまったため、埋め合わせのためにみずから最大限のサービスを行ったと解釈することもできます。それだけ予定外の成り行きだったのでしょう。

 一方、光秀です。本能寺の変では、光秀の兵は「てっきり家康を殺すのだと思った」と述懐しています(『本城惣右衛門覚書』)。家康に対する取次役を確保できれば、近い将来信長が家康を不要として切り捨てる際に攻撃司令官となり、東海三ヶ国切り取り自由の権利を得られるかも知れない、光秀はそう思っていたのではないでしょうか。そうなれば、四国攻めの司令官の座を逃がした失点も取り返せ、養成した軍事力で、その後の九州攻めや奥州攻めにも参加でき、今一度織田家の中で大きな位置を占める事も可能だろう、と。

 トップのそういう考えは、部下に伝染するものです。

「家康がターゲットだ」と部下の兵が考えていたのも、そういう背景があったからでしょう。

 その望みが中国増援で一瞬にして消えた時、光秀の心中に信長襲殺への暗い炎が点いたのかもしれません。

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橋場 日月

はしば あきら

はしば・あきら/大阪府出身。古文書などの史料を駆使した独自のアプローチで、新たな史観を浮き彫りにする研究家兼作家。主な著作に『新説桶狭間合戦』(学研)、『地形で読み解く「真田三代」最強の秘密』(朝日新書)、『大判ビジュアル図解 大迫力!写真と絵でわかる日本史』(西東社)など。


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