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織田信長は上京焼き討ちの向こうに何を見ていたのか

季節と時節でつづる戦国おりおり第341回

 モリカケ騒動は収まるどころか財務官僚の偽証や首相秘書官の虚言問題も発生して大混乱。さらに財務事務次官セクハラ疑惑まで発生して、政権は丸焼け状態。この政務の停滞は、金額に換算するといくらぐらいの損失となるのでしょうか。

 さて、丸焼けといえば。

 

 今から445年前の元亀4年4月4日(現在の暦で1573年5月15日)、織田信長が上京を焼き討ち。
 上京というのは京都市の中心の内ざっと今の二条城より北のエリアを指すが、信長は前々日からすでに洛外(東山の東、桂川の西、伏見の南、賀茂の北)に放火していた。その箇所数、実に128。洛外の寺社は「少々は焼け残った」というありさまだったらしい(『公卿補任』。『年代記抄説』には庶民の家ばかりが焼かれ、寺社は放火されなかった、とする)。
 信長は、武田信玄、浅井長政、朝倉義景と結んで打倒・織田の姿勢を明らかにした将軍・足利義昭に降伏を促すため、まず洛外で示威行動したのだ。義昭本人を脅すというよりも、朝廷や寺社勢力にプレッシャーを与えて義昭を引きずりおろさせようという駆け引きだったかもしれない。

 ところが義昭は二条御所に籠もって反抗の姿勢を改めなかったため、この日の上京焼き討ちとなったのだ。御所のまわりこそ朝廷側が「堅く申し付け」たために放火されなかった(『御湯殿上日記』)が、それ以外は西陣から始まった織田軍の付け火によって二条から烏丸まで丸焼けとなり、夜になっても延焼は収まらなかった。数知れない町人や庶民が殺害され、公家の中納言・飛鳥井雅教の屋敷も類焼したという(『兼見卿記』)。
 この焼き討ちの二日後、信長は徳川家康に
「このおかげで講和の動きが出て大体同意に至った」
 と自画自賛しているが、実際、二条御所を包囲された義昭はこの日に矛を収めている。彼がふたたび挙兵して追放されるのは三ヶ月後のことだ。

 

 ところで、当時の上京は京の政治と商業のすべてが集まっており、下京がほぼ寺社や民家の集まりに過ぎないのに対し、その総生産の大きさは、現在の東京都がGDPの2割近くを占めるという比率に近いものがあったのではないだろうか。
 現在、京都市の市内総生産は6兆円あまりほどだが、信長が灰燼にしてしまった上京の価値は、あるいはそんな金額ではなく、東京都の総生産94兆円あたりに匹敵する規模だったかも知れない。なんと言っても当時の首都でもあったのだから。

 逆に、信長にとってはそれだけの巨大損失を計上してまでも、義昭との対立は早く解消しておかなければならなかったのだ。何せ、当時武田信玄はまだ生きており(4月12日に死去)、浅井・朝倉、本願寺も健在。彼らの結束の象徴となった義昭は何としても駒として持っておかなければ、包囲された信長は滅亡するしかなかった。
 結果として、この直後に信玄が病死し、浅井・朝倉も年内に滅亡させられるわけだが、神ならぬ身の信長がそんな展開を予測できる筈も無い。焼き討ちという決断は正しかったのだろう。ただ丸焼けになっているだけで先の展望もおぼつかない現政権と違うのは、そこかも知れない。

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橋場 日月

はしば あきら

はしば・あきら/大阪府出身。古文書などの史料を駆使した独自のアプローチで、新たな史観を浮き彫りにする研究家兼作家。主な著作に『新説桶狭間合戦』(学研)、『地形で読み解く「真田三代」最強の秘密』(朝日新書)、『大判ビジュアル図解 大迫力!写真と絵でわかる日本史』(西東社)など。


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