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ここに2万人も入れないぞ~桶狭間前夜の沓掛城

鈴木輝一郎 戦国武将の史跡を巡る 第33回

岐阜在中の歴史作家・鈴木輝一郎がゆるりとめぐる、戦国武将の史跡。
つい見落としてしまいがちな渋い史跡の数々を自らの足で訪ね、
一つ一つねぶるように味わい倒すルポルタージュ・ブログシリーズ開幕!

今川軍24千が入った沓掛城跡……ってなんか狭くね?!

 桶狭間の合戦を題材にした歴史小説を書いたんですが、その事前に現地踏査した話でもしましょうか。拙宅からは車で1時間ぐらいかかるんで、このときは事前に入念に準備──って、カーナビに入力するだけなんですけどね。

 桶狭間の合戦についての解説は、いまさらいいですね? 今川義元が2万5千人とか4万人とかの大軍をひきいて、織田信長2千と戦った。

 で、今川義元が勝つと思われてたんですが、織田信長軍が今川義元の本陣と正面からぶつかって、今川義元が戦死した。これにより織田信長のキャリアは、尾張の地方武将から一気に天下に名を知られるようになりました。

 戦国時代は組織戦闘の時代です。合戦の最中に総大将が戦死することは滅多になし。おおきくヘタを打った今川義元サイドの事情は、けっこう知られていない。だもんで、今回は今川義元の側から。

 今川義元は永禄3年(1560)5月12日に駿府(現・静岡市)を出発し、桶狭間の合戦の前日・永禄3年5月18日、本拠地を沓掛城に移しました。で、沓掛城の写真を。

 

 

 すいません、例によって何もない史跡です。

 古地図などをみると当時のおもむきがそのままなんだそうだ。当時としては大きいほうでしたが、やっぱりけっこう小さい。東西288m、南北234m。本丸と二の丸、あと、一段高いところに「諏訪曲輪」という曲輪がつくられてます。

 城としての造作はなし。本丸跡地には井戸。

 

 撮影したのは9月。本丸の脇には照明塔が建てられていますが、ホタルが飛ぶ時期には消されるんだそうだ。ホタルが見られるなんて風流ですな。

 

 現地の案内版によれば沓掛城址公園の面積は1万平方メートル。空堀などが計算に入っていないらしい。だいたい野球のグラウンドぐらいの広さです。

 もちろん、今川義元が入ったときには建物があるわけですから、今川義元軍2万4千人(輸送部隊もいれると4万人ぐらいいたらしい)がはいれるわけがない。

 だったら、今川義元軍はどこに泊まったんだろう、とか思うわけですな。

 

 それにしても古戦場とか城址の写真はどれもほとんど同じに見える(苦笑)。なんか、工夫してみます。

 ちなみに歴史小説『桶狭間の四人 光秀の逆転』(毎日新聞社)は絶賛発売中。お近くに書店がない場合(お近くの書店「に」ない場合、ではない)はamazonでどうぞ>http://amzn.to/2vJ2n2J

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鈴木 輝一郎

すずき きいちろう

作家

1960年岐阜県生まれ。小説家。歴史小説『浅井長政正伝』『戦国の凰 お市の方』など著書多数。2008年には著作が50冊に達した。

日本推理作家協会・日本文藝家協会・日本冒険作家クラブ会員。


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