『太陽』もいいけど『QA』もね!【新保信長】 連載「体験的雑誌クロニクル」26冊目
新保信長「体験的雑誌クロニクル」26冊目
なかでも印象に残っているのは、1992年9月号「死を想え。」だ。まず特集冒頭の「死のイコン」(構成・文:飯沢耕太郎)に圧倒される。〈現実の死が隠蔽されてしまった現代、写真によるイメージの死者たちがそのタブーを切り裂いていく〉とのリードから始まる誌面には、誤診により2歳5カ月で亡くなった娘を撮った太田順一、棺に納められた最愛の妻・陽子を撮った荒木経惟のように身近な者の死を記録した写真、戦争や犯罪による死者の写真、写真家が死者を演じたセルフポートレート、世界各地の死の儀式を捉えた写真などが並ぶ。もとより有名な写真だが、石川文洋による「解放戦線兵士の死体を持ち上げる米軍兵士」の衝撃は、今なお薄れることはない。

小池寿子「中世末期の『生ける死者』」、種村季弘「死の時間、死の風景」、吉田喜重「歓ばしき死のシーニュ」、今枝弘一「ジャーナリスティックな死線」、中沢新一「死と耳」、小松和彦「子殺しの系譜」、巽孝之「臨終の想像力」といった寄稿も、豊富な図版と併せて見ごたえあり。動物写真家・宮崎学がカモシカの死体が他の動物に食われたりして白骨化し土に還る過程を撮り続けた「自然の死」は、むしろ美しさすら感じさせる。
連載やコラム、文化欄の書き手も(いちいち名前は挙げないが)豪華すぎるほど豪華なメンツ。80年代のトヨタ自動車の広告コピーで「いつかはクラウン」というのがあったけれど、編集者・ライターとして「いつかは『太陽』」と密かな野望を抱いてもいた。
しかし、その野望を果たせぬまま、『太陽』は2000年12月号をもって休刊する。休刊号の特集は「北欧デザイン紀行」。編集部が休刊を知らされたのも急だったのだろう。表紙に「1963→2000」という数字が大きく入っているものの、誌面で38年の歩みを振り返ることはなく、いつもなら次号予告が入る巻末ページに休刊のお知らせが掲載されているだけだった。
前出の朝日新聞の記事で、当時の平凡社社長・下中直人氏は次のように述べている。
「これ以上無理をすれば倒産の危機も覚悟しなくてはならないほど厳しい事態が予測されたため大幅なリストラに踏み切った。『伝統と新生』というキーワードを考えている。事典類、東洋文庫、別冊太陽などの伝統は残しつつも、採算のとれている平凡社ライブラリーや平凡社新書など新しい分野で著者を開拓し、新規の読者を獲得したい」
『太陽』は休刊するのに『別冊太陽』は残すというのも不思議な話ではある。しかも、同記事によれば『太陽』は〈七〇年代前半には十六万部から十八万部が売れた時期もあり、同社の主柱的存在だった。現在の発行部数は六万部〉って、いやいや6万部もあれば十分でしょう!と(今の感覚では)思ってしまう。まあ、誌面からして経費がかかりそうではあるし、会社が傾きかけてる状況ではやむをえなかったのかもしれないが、惜しい雑誌をなくしたものだ。

