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ダグラス・マッカーサーは保守でもあり、急進でもあった

マッカーサーとGHQの戦後改革とアメリカのポピュリズム(前編)

アメリカで最も危険な二人の人物の内の一人

 

 イギリスの国民投票におけるEU離脱賛成派の勝利、アメリカ大統領選挙におけるドナルド・トランプの勝利など、2016年は世界の民主主義国家において「ポピュリズム」が猛威を振るった年だったと記憶されることになるだろう。

 既成の政治に対する大衆の反発としての「ポピュリズム」には、「右」からのものと「左」からのもの、両方のものがある。たとえば、イギリスやフランス、オーストリアなどに見られる「反移民」を基軸としたものは民族主義的な「右」寄りの「ポピュリズム」で、イタリア、スペイン、ギリシャなど債務と高い失業率にあえいでいる南欧諸国のものは市場主義に反発して格差是正を求めるような「左」寄りの「ポピュリズム」だと言える。

 アメリカのトランプの主張には「右」寄りの要素が強く見えるが、「左」寄りのスタンスで労働者からの支持を勝ち取った面もあり、一概にどちらとは言い切れない。「右」と「左」の「ポピュリズム」の融合が「トランプ現象」を生み出した面もあるのだろう。

 このように、多様な側面を持つ「ポピュリズム」であるが、21世紀の現代だけでなく、大衆社会化が進んだ19世紀末から20世紀前半にかけても、欧米で大きな役割を果たしていた。そして、その影響は欧米のみならず、日本にも及んでいる。

 戦後日本の在り方に大きな影響をもたらした一人の人物、ダグラス・マッカーサー(1880~1964)の独特な言葉や行動、パーソナリティの背景には、「ポピュリズム」の多様な様式が、占領期日本において邂逅し、奇妙な結合を果たした経緯が見え隠れしているのである。

 

 第一次世界大戦の欧州西部戦線にて指揮官として戦功を上げたマッカーサーは、50歳を迎えた1930年に、ハーバート・フーヴァー大統領(1874~1964)によって史上最年少の陸軍参謀総長に任命された。1933年にフランクリン・ルーズベルト(1882~1945)が大統領となった後にも、1935年までその任を務めている。

 マッカーサーは、政治的には古典的な自由主義の立場に立つ保守派であり、「大きな政府」を志向する「ニューディール」政策を掲げた「リベラル」のルーズベルトと対立することが多かった。時勢は第一次大戦後の軍縮と大恐慌の下にあり、政府は軍事費削減を目論んでいたが、マッカーサーは参謀総長として軍事費削減にも真っ向から反対していたのである。

 第一次大戦で塹壕と機関銃の戦争を体験したマッカーサーは、機関銃陣地を突破できる戦車と航空機による戦争の時代が訪れることを予見したものの、政府や議会の反発を受けていた。そのため、平和主義者に敵意を抱いていたようである。

 1932年には失業者の内の旧軍人たちが一万人以上の群衆となってワシントンに押し寄せ、特別手当の支払いを求めるという「ボーナスアーミー」事件が起きた。マッカーサーはこの時、非武装のデモ隊に対して軍隊を指揮し、強引な排除を行った。この行動は新聞などのマスメディアを通じて報じられ、多くの批判を浴び、フーヴァー落選の一因となったとも言われている。だが、マッカーサーは終始、モスクワの指令を受けた共産主義者が裏でデモ隊の糸を引いており、デモ参加者の多くは犯罪歴のある者だったと信じていた。

 アメリカ大統領の地位を本気で考えるほど政治への関心を持っていたマッカーサーは、このように、基本的には反「ニューディール」、平和主義と共産主義への敵視という保守的で「反動」的な立場を取っていたのである。

 第二次世界大戦において、ルーズベルトは大統領として、太平洋戦線における対日戦争の指揮をマッカーサーに任せることとなる。しかしそれ以前には、マッカーサーを「アメリカで最も危険な二人の人物の内の一人」と考えるほど危険視していた。

 ルーズベルトは「この国の企業家や影響力のある人々は、この1930年代の経済的危機の中で民主主義を軽蔑し、強力な指導者を求めている。アメリカでシーザーになり得る人間の中でマッカーサーほど魅力と経歴と威厳に満ちた風貌をみごとに備えている人間はいない」と語ったという。

 ちなみに、ルーズベルトが「アメリカで最も危険な二人の人物」と考えたもう一人の人物は、激しい政争を闘ったルイジアナ出身の連邦上院議員にして稀代の「ポピュリスト」であったヒューイ・ロング(1893~1935)である。(ヒューイ・ロングの「ポピュリズム」については「ドナルド・トランプを知るためには、ヒューイ・ロングを知らなければならない。」に詳しく書いた)

 ただ、マッカーサーとルーズベルトの個人的な親交は古く、二人の出会いは1913年にマッカーサーが陸軍参謀本部の一員となり、ルーズベルトが海軍次官となった時で、「ダグラス」「フランク」と呼び合う仲だったとマッカーサーの『回想記』に書かれている。そして、大統領と参謀総長という間柄になった時も、ルーズベルトは頻繁にマッカーサーを呼び、軍事問題ではなく社会改革に関する意見を聞いたが、それはマッカーサーの意見を「アメリカ国民の良心の声」として聞くためだったという。

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大賀 祐樹

おおが ゆうき

1980年生まれ。博士(学術)。専門は思想史。

著書に『リチャード・ローティ 1931-2007 リベラル・アイロニストの思想』(藤原書店)、『希望の思想 プラグマティズム入門』 (筑摩選書) がある。


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