「解く」ではなく「作る」【森博嗣】新連載「道草の道標」第8回
森博嗣 新連載エッセィ「道草の道標」第8回
【答を探すときの高揚感】
問題には2種類ある。それは、答がないものとあるものだ。「正解」と呼べるかどうかはまた別だが、答と呼べるものはいろいろある。とりあえずそれで自分が納得できるとか、幾つか答があるうちで最も選びやすいとか。だが、答というものが存在しないことが判明する場合もある。答がないことが理屈で明確に示されれば、それは一種の答といえるので、「そうか、答はないのだ」と納得して問題は一旦解消される。
どんな答があるのだろうか、という好奇心が人を問題へ誘う。わからない、どうなっているのか、何が原因なのか、と探り続ける時間はエキサイティングで、没頭できることがとても楽しい、と僕は感じる。しかも、答に近づいている、もうすぐ判明するということが予感できると、さらに嬉しくなって、この作業から抜け出せない。
ついに答に辿り着いた、という瞬間が来る。すると、深呼吸をして、自分一人でその達成感に浸る。だいたい10秒くらいのことだ。そして、次にしたくなるのは、この問題解決を誰かに伝えたい、ではない。そんなことは思いもしないし、また、人に伝えることは、そもそも不可能だ。経緯を説明するだけで骨が折れる。具体的には、論文を書く作業などがこれに相当するけれど、全然楽しいものではない。他者に認められたくてやってきたわけではないのだ。人に説明すると考えるだけで、意気消沈してしまう。
そうではなく、すぐに取り掛かるのは、また別の問題、次の問題なのである。問題を抱えている状態は、材料が豊富にあり、ストックが豊かであることに等しく、その状態自体が「幸せ」だ、と少なくとも僕は感じている。
では、問題はどこから来るのか? 人から与えられるのはノルマ寄りになる。自分の問題として、自分が考える価値があるものは、自分が作った問題だ。生活の中で、さまざまな問題が生じるけれど、それを整理し、どこに問題があるのか、ここまでは問題ないから、わからないのはこことここだ、というふうに問題の在処を明らかにする。その作業が「自分の問題」を作ること、といえる。
たとえば、大学の研究室では、卒論生には教官が問題を与え、この手法で解決しなさい、と指導する。その学生が修士課程の院生になったら、今度は問題を与えるだけで、手法は自分で考えるように導く。そして、その学生が博士課程に進学したら、次は、自分で問題を見つけなさい、となる。結果として、大学を卒業した学士は、問題と手法が与えられれば解決できる。修士は、問題を与えれば方法を自分で探して解決できる。博士号を持っていれば、自分で新たな問題を見つけられる人材といえる。
この3段階のいずれも、解決に至る過程で高揚感を得られるけれど、後者になるほど、困難になる分、充実した楽しさが得られるのは自明である。
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