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どうして残虐行為を行ったアメリカが、東京裁判における「人道に対する罪」で、日本を裁くことができるのか。

米国人弁護士が「断罪」東京裁判という茶番 第9回

東京裁判開廷70年。「米国人弁護士が『断罪』東京裁判という茶番」を上梓、来日から40年日本を愛し、知り尽くしたケント・ギルバート氏が米国人の視点からみた東京裁判について論じていく。

 真珠湾攻撃によって、日米の戦端が開かれると、大統領行政命令によって、十二万人以上にのぼる、アメリカ国籍を持つ日系アメリカ人が、敵性外国人として、財産をすべて没収されたうえで、身の回り品だけ持つことを許されて、全米十か所の僻地に設けられた強制収容所に送り込まれた。

靖国神社にて 撮影・末松正義

 これは、法の下の平等を定めた、アメリカ合衆国憲法修正第十四条に対する、重大な違反だった。同じく、敵国のドイツ系、イタリア系などのアメリカ人は、まったく収容されることがなかったのだ。

 収容所は有刺鉄線によって囲まれていた。
馬小屋や、急拵えの掘立小屋が並び、衛生も、環境も、劣悪だった。サーチライトを備えた監視塔の上から、常時、銃を携えた兵士が監視していた。

 歴史学者のマサチューセッツ工科大学(MIT)のジョン・ダワー教授は、著書『容赦なき戦争・太平洋戦争における人種差別』(平凡社)のなかで、日系アメリカ人が収容された施設について、こう描写している。
「日系アメリカ人は西海岸の自宅や、コミュニティから追い立てられて、牛のように駆り集められただけではなく、強制収容所の最終的な宿舎に移住させられるまで、何週間も、何カ月も、動物用の施設で暮らすよう命じられたのである。
 ワシントン州では、二千人の日系アメリカ人が、ポートランドの家畜置場にある、唯一の汚い建物に詰め込まれ、わらを詰めた麻袋の上で寝た。カリフォルニア州ではサンタアニタ、タンフォロンといった、競馬場の厩舎の中の馬房に押し込められた。サンタアニタの集結センターは、結局八千五百人の日系アメリカ人の住居にあてられたが、馬の引っ越しと、最初の日系アメリカ人の到着との間には、四日しかなかった。
 そこの唯一の入浴設備は、馬用のシャワーであり、厩舎の悪臭がいつまでも漂っていた。ほかの疎開者たちも、はじめ各地の馬小屋や牛舎に入れられた。ワシントン州のピュヤラップ集結センター(キャンプ・ハーモニーと呼ばれた)では、豚の檻に入れられた。

◆人間扱いされなかった日本兵

 アメリカのほとんどの白人が、日本人や日系人を蔑視していたから、アメリカ国内でも自分たちと同じ人間として見ていなかったのだ。同様に戦場において、日本人兵士を、人間だとは見ていなかった。

 チャールズ・リンドバーグは、一九二七年に単機を駆って、はじめて大西洋を横断したことで、アメリカの国民的英雄となった。
 リンドバーグは、第二次世界大戦に当たって、志願して、太平洋戦線で大佐として戦ったが、克明な日記を残している。
「軍曹は撃つべき日本兵を見つけられなかったが、偵察隊は一人の日本兵を捕虜にした。今こそ、日本兵を殺すチャンスだと、その捕虜は軍曹の前に、引き立てられた。
『しかし、俺はこいつを殺せないよ!やつは捕虜なんだ。無抵抗だ』
『ちぇつ、戦争だぜ。野郎の殺し方を教えてやらあ』
 偵察隊の一人が、日本兵に煙草と火を与えた。煙草を吸い始めた途端に、日本兵の頭部に腕が巻きつき、喉元が一方の耳元から他方の耳元まで、切り裂かれたのだった。
 このやり方は、話をしてくれた将軍の、全面的な是認を受けていた。私がそのやり方に反対すると、軽蔑と哀れみの態度で接した。
『やつらを扱うたった一つの方法さ』
 談はたまたま捕虜のこと、日本軍将兵の捕虜が少ないという点に及ぶ。『捕虜にしたければ、いくらでも捕虜にすることが出来る』と、将校の一人が答えた。『ところが、わが方の連中は、捕虜を取りたがらないのだ』
『二千人ぐらい捕虜にした。しかし、本部に引き立てられたのは、たった百か、二百だった。残りの連中には、ちょっとした出来事があった。もし、戦友が飛行場に連れて行かれ、機関銃の乱射を受けたと聞いたら、投降を奨励することにはならんだろう』
『両手を挙げて出て来たのに、撃ち殺されたのではね』と、別の将校が調子を合わせる」(一九四四年六月二十六日)
 「わが将兵の態度に、強い衝撃を覚えた。敵兵の死や勇気に対しても、また、一般的な生活の品位に対しても、敬意を払うという心を持ち合わせておらぬ。日本兵の死体から略奪したり、略奪の最中に、死者を『野郎』呼ばわりしたりすることも、意に介さぬ。ある議論の最中に私は意見を述べた。『日本兵が何かをしでかしそうと、我々がもし拷問をもって彼らを死に至らしめれば、我々は得るところが何一つ無いし、文明の代表者と主張することさえできない』と。
 『ま、なかには、やつらの歯をもぎとる兵もいますよ。しかし大抵は、まずやつらを殺してから、それをやっていますね』と、将校の二人が言い訳がましく言った」(六月二十八日)

 「わが軍の将兵は、日本軍の捕虜や、投降者を射殺することしか、念頭にない。日本人を動物以下に取り扱い、それらの行為が、大方から大目に見られているのである。われわれは文明のために戦っているのだというが、南太平洋における戦争をこの眼で見れば見るほど、われわれには、文明人であると主張する理由が、いよいよ無くなるように思える」(七月十五日)

 「心底で望んだとしても、敢えて投降しようとしない。両手を挙げて洞窟から出ても、アメリカ兵が見つけ次第、射殺するであろうことは、火を見るよりも明らかなのだから
(七月二十一日)

 以上『孤高の鷲―リンドバーグ第二次大戦参戦記』学研M文庫

 アメリカの従軍記者は、一九四六(昭和二十一)年の『アトランティック・マンスリー』誌に、太平洋戦線で「われわれは捕虜を見境なく撃ち殺し、野戦病院を攻撃し、救命ボートに機銃掃射を加え、民間人を殺害した。日本兵の頭蓋骨を煮て、置き物や、骨からペーパーナイフをつくった」(エドガー・ジョーンズ)と、寄稿している。

 アメリカの人気作家のウィリアム・マンチェスターも、著書『回想 太平洋戦争』(コンパニオン出版)のなかで、「投降した日本兵は無防備だったが、一列に並ばせて、軽機関銃で掃射して、一人のこらず射殺した」と、述べている。
 先のダワー教授は著書のなかで、「捕えた日本兵を一人放ち、狂ったように駆け出して逃げるところを、銃の標的として楽しんだり、沖縄で恐れおののく老女を撃ち殺して、『みじめな生活から、自由にしてやった』と、自慢した」と書いている。

 イギリスの歴史作家のマックス・ヘイスティングは、沖縄におけるアメリカ兵による残虐行為を、つぎのように描いている。
 「一般住民がさまよう戦場では、身の毛がよだつようなことが起こった。とくに、沖縄戦がそうだった。

(アメリカ軍兵士の)クリス・ドナーは、こう記録している。
『地面に十五歳か、十六歳と思われる、美しい少女の死体が横たわっていた。全裸でうつぶせになって、両腕を大きく拡げていたが、やはり両脚を開いていて、膝から曲げてあがっていた。
 仰向けると、少女の左乳房を銃弾が貫いていたが、何回にもわたって強姦されていた。日本兵の仕業であるはずがなかった。』
 しばらく後に、ドナーの分隊の何人かが、丘の上から、敵によって狙撃されて倒れた。その直後だった。赤児を抱きしめている日本女性に、遭遇した。
 兵たちが口々に、『あのビッチ(魔女)を撃て! ジャップ・ウーマンを殺せ!』と、叫んだ。
 兵が一斉に射撃した。女は倒れたが、渾身の力を振り絞って立ち上がると、手放した赤児のほうへ、わが子の名を叫びつつ、よろめきながら進んだ。
 兵たちは、さらに銃弾を浴びせた。女が動かなくなった」(『ネメシス 日本との戦い 一九四四ー四五』、ハーパース・プレス社、ロンドン)
「ネメシス」は、ギリシャ神話のなかに登場する、復讐、あるいは天罰を降す女神である。

 もし日本兵がこのような残虐行為を働いたならば、「皇軍」の名を汚すものとして、厳しく処罰された。日本は長い歴史を通じて、これほど酷い人種差別を行ったことも、都市ごと大量虐殺を行うこともなかったし、奴隷制度も存在しなかった。
 このような証言は、この他にもいくらでもある。日本人は先の対戦中、アメリカ人を「米鬼」と呼んだが、まさに鬼だった。戦時中の日本国内で「鬼畜米英」という言葉が日常的に使われ、東條英機が戦陣訓で「生きて虜囚の辱めを受けず」と説いた理由も、このような戦場の現実を知れば理解できる。
 どうして、このような残虐行為を行った側が、「人道に対する罪」で、極東国際軍事裁判で日本を裁くことができるのか。
 

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ケント・ギルバート

1952年、アイダホ州に生まれる。1970年、ブリガムヤング大学に入学。翌1971年に初来日。その後、国際法律事務所に就職し、企業への法律コンサルタントとして再来日。弁護士業と並行してテレビに出演。2015年、公益財団法人アパ日本再興財団による『第8回「真の近現代史観」懸賞論文』の最優秀藤誠志賞を受賞。著書に『儒教に支配された中国人と韓国人の悲劇』、『中華思想を妄信する中国人と韓国人の悲劇』(ともに講談社+α新書)、『リベラルの毒に侵された日米の憂鬱』(PHP新書)、『日本人だけが知らない世界から尊敬される日本人』(SB新書)、『米国人弁護士が「断罪」東京裁判という茶番』(小社刊)などがある。


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