義務と責任は誰にもある?【森博嗣】新連載「道草の道標」第4回
森博嗣 新連載エッセィ「道草の道標」第4回
【責任はどうして生じるのか?】
義務に似ているものとして、「責任」がある。よく使われる言葉だ。仕事だと「責務」ともいう。こういったものに縛られず、自分ファーストで自由な行動や判断をしていると、周囲から「無責任だ」といわれたりする。たとえば、自由な創作者である小説家であっても、シリーズものの続きを書かないと、読者から「無責任だ」とバッシングされるだろう。契約した覚えなどないのに、この責任というのは、いつの間に生じるのだろうか?
また、最近多いのは、ちょっとした悪事を撮影してネットで晒すような行為。マスコミもよく取り上げている。大勢が集ってバッシングするか、「やめましょう」とお願いするだけで、安心するのだろうか。僕は、「罪を犯したことがない者がまず石を投げなさい」という聖書の言葉を連想してしまう。誰もが小さな罪を自覚した経験があるはずだから、他者のことを責める(石を投げる)まえに考えてみてはどうか、といった気づきを与える言葉である。かといって、誰もが罪を犯しているのだから、他者の罪を問う権利はない、と解釈してしまうと、ちょっとずれているかも。イエスはそこまではいっていない。各自の「自覚」こそが大事だ、という教えだと僕は受け止めている。
「義務」というのは、外力によって生じるもので、一般になんらかの罰によって効力を発揮する。罰則というのは、法律などに規定されるものだが、もう少しわかりやすくいえば、つまり暴力である。拘束されたり、罰金を払わされたり、ときには殺されたりする暴力だ。法律というのは、この仕組みをできるだけ公平な形で具現化したものといえる。「違反をしたら罰を与えるぞ」と一方的に脅されているのが、法治国家の国民なのだ。しかし、そうでもしないと、もっと不公平な暴力が横行する原始的な社会に戻ってしまうので、人類はこの仕組みを妥協的に取り入れた。
一方、「責任」には罰則がない。責任は規定されていない。多分に自発的なものであり、各自が自覚するものだ。たとえば、家族のために尽くす責任がある、と感じるし、一度口にしたことは簡単に覆せないと感じる。昔はこれを義理とか道義といった。自分が目指す自己理想によって発生し、またグループ内でもそれを共有するけれど、広く社会全体に対する責任となると、かなり曖昧なものとなってしまうのは、やはり自覚的なものであり、他者には期待することはできても、強制できないものだからだろうか。
というわけで、他者に向かって「お前の責任だ」「責任を取ってくれ」と訴えるのは、少々いきすぎているように僕は感じる。せいぜい、「責任を感じてくれ」とお願いしているレベルでしかない。だから、「責任の一部は私にあるかもしれないが、私一人ですべての責任を取ることは無理だ」と返されてしまえば、そこまでだろう。トップが辞任するたびに、「ほかに責任者はいなかったの?」と思うのは、僕だけでしょうか?
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