トランプ当選で政治的無関心が変わる?

 今回の選挙の結果を受けて、民主主義がポピュリズムへ堕落したという嘆きが、多方面から聞こえてくる。たしかに、古代ギリシャのアテナイにおける民主主義が扇動家によって衰退し、第一次大戦後のワイマール共和国がヒトラーとナチスによって堕落したのと同じことが、現在のアメリカでも起きていると見ることもできるかもしれない。

 だが、物事には必ず良い面と悪い面があるものだ。では、もしもトランプ当選という事態に「良い面」があるとしたら、それは一体どのようなことだろうか。

 一つ言えるのは、多くの人が、今までとは違ったモチベーションを持って、政治という公共的な事柄へ積極的に参加したということである。

 民主主義において、公共性の主体たる民衆が、無関心に陥ることなく、公共的な事柄へ関心を抱いて積極的に参加するということは不可欠なことである。これが無くなったら民主主義が成立しなくなるとさえ言えるだろう。

 近代初期の民主主義国家では、ほとんどの場合、選挙権が財産や性別によって制限される制限選挙が行われていた。それは、公共的な事柄に関心を持って理解できるほどの知性を持ち、政治に参加できるほどの余裕を持てるのが、財産がある成人男性に限られると考えられていたからである。

 一方、移民の国であるアメリカでは、階級社会であったヨーロッパよりも早く普通選挙が実施されてきた。だからこそ、早くから公共的な事柄への無関心とポピュリズムが生まれやすい土壌が存在していたとも言える。そのため、大衆社会化が進んだ20世紀前半のアメリカでは、大衆の政治的無関心と政治参加について、盛んな分析と議論が行われた。

 1920年代のアメリカは空前の好景気に湧き、「狂騒の20年代」とも呼ばれる時代を迎えていた。自動車の普及は工業と交通網を発達させ、映画館は人で埋まり、ラジオからジャズが流れる。禁酒法下の潜り酒場では夜な夜なダンスショーが繰り広げられ、メジャーリーグのスタジアムに集まった観衆はベーブ・ルースの活躍に熱狂する。大衆が社会の主役となったそんな時代に、多くの人々は公共的な事柄への関心を失い、民主主義の主体として政治へ参加する頻度を少なくしていったのである。

 民主主義とは、民衆が常に公共的な事柄へ高い関心を持ち、多種多様な事情を理解した上で、理性的な思考によって判断を行い、政治に参加するような「公衆」となって行われるものだという前提から成り立っている。

 だが、20世紀の大衆社会を生きる人々には、公共的な問題に関する膨大で仔細な情報を読み解くための関心と理解力を持てず、生きるための労働と僅かな余暇に追われているために政治に参加する時間と余裕がない。現代の民衆は民主主義の主体である「公衆」とは成り得ないのである。

 アメリカの知識人ウォルター・リップマン(1889~1974)は、「公衆」が失われた時代の民主主義をそのように捉えた。そのうえで、「公衆」の全面的な参加による民主主義という幻想を捨てて、専門家による統治運営の強化という現実的な処方箋を提示したのである。

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