「何度やられても、諦めなければ負けじゃない」デビュー22年でIWGP頂点に立った後藤洋央紀の大逆転人生 |BEST TiMES(ベストタイムズ)

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「何度やられても、諦めなければ負けじゃない」デビュー22年でIWGP頂点に立った後藤洋央紀の大逆転人生

■大怪我から再入門。苦難を乗り越えてデビュー

 憧れの新日本プロレスに入門した後藤だが、入門早々、練習中のスパーリングで肩を脱臼してしまう。手術が必要なほどの重傷を負った後藤は、合宿所から離脱する事態に。一時、高校時代から友人であり新日本プロレスの先輩でもある柴田(勝頼)の家に転がり込んだが、結局三重に戻った。

「柴田は『治るまでウチにいればいいじゃん』と言ってくれたけど、いつまでも甘えるわけにはいかないじゃないですか。他に行くあてもないんで一度実家へ戻りました」

 それからは、新日本プロレスへ再入門を果たすために治療とリハビリに励む日々を過ごす。母校の体育館を借り、後輩と一緒にレスリングに取り組んだ。また、当時名古屋にあった新日本プロレスの闘魂SHOPでアルバイトをしながら、お店併設の道場でも練習をして体を仕上げていった。

 治療とリハビリを終えた2002年11月、後藤は再び新日本プロレスの門を叩くことになる。彼の復帰を誰よりも喜んだのは同期の田口隆祐だ。自分とのスパーリングでケガしたことを誰よりも気にしており、後藤の才能を誰よりも高く評価していたからだ。

 

▲デビュー戦で待ち構えていたのは田口隆祐

 

 仲間の下へ帰ってきた後藤は、2003年7月に田口を相手にデビューを果たす。 後藤は、デビュー戦のことをブログにこう記している。

〈あの当時の事は忘れやすい俺でもよく覚えてる〉

〈試合前の練習では成瀬さんに気合いが入ってない!とビンタされたなぁ とか 試合後はライガーさんに元気がない!とスゲー怒られたなぁ とか〉

 デビュー後は、田口と共にJr.ヘビー級の選手としてリングに上がり、ベテランの邪道・外道のコンビなどと対戦。2005年に若手プロレスラー同士のリーグ戦「ヤングライオン杯」で優勝を果たすと、当時新日本プロレスを席巻していたヒール軍団「C.T.U(コントロール.テロ.ユニット)」に加入。なぜかリーダーにされてしまう。

「これ、リーダーと言っても名前だけです(苦笑)。上には(獣神サンダー・)ライガーさんや邪道さん、外道さんとかがいたので自分が一番下っぱでしたよ。どうしてデビューしたばかりの自分に声をかけてくれたのかは、今でもよくわからないです(苦笑)」

 当時のことをライガーは、東スポの連載コラムで次のように記していた。

〈C.T.Uで一緒にやっていた時も僕や邪道、外道のアドバイスをよく聞いて努力してたもん。天然キャラでイジられたりしてたのも、彼の努力を認めているからこその信頼の証しで、かわいがられていたんだと思うよ〉

 真面目でひたむきな性格が評価されていたのだろう。C.T.U在籍時はIWGPジュニアタッグやIWGP・U-30無差別級王座に挑戦する機会を得た。

 華々しい結果を残すことはなかったが、期待の若手として着実な成長を遂げていた。

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篁五郎

たかむら ごろう

1973年神奈川県出身。小売業、販売業、サービス業と非正規で仕事を転々した後、フリーライターへ転身。西部邁の表現者塾ににて保守思想を学び、個人で勉強を続けている。現在、都内の医療法人と医療サイトをメインに芸能、スポーツ、プロレス、グルメ、マーケティングと雑多なジャンルで記事を執筆しつつ、鎌倉文学館館長・富岡幸一郎氏から文学者について話を聞く連載も手がけている。

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