「何度やられても、諦めなければ負けじゃない」デビュー22年でIWGP頂点に立った後藤洋央紀の大逆転人生
■メキシコ武者修行で見つけた自分のスタイル
デビューから2年10ヶ月。後藤はアメリカへ短期参戦した後、2006年7月にメキシコへ無期限の遠征に出発した。昔も今も海外遠征は若手プロレスラーを大きくする。近年の新日本プロレスでも、後藤が凱旋帰国試合の相手を務めたEVILを筆頭にグレート-O-カーン、海野翔太、辻陽太、上村優也などが海外で飛躍して新日本プロレスへ戻ってきている。
後藤のメキシコ遠征も充実の日々あった。
「メキシコでは毎日のように試合があったので、リングに上がるたびに成長していったような感じでしたね。今のスタイルを作ったのもメキシコなんですよ。シングルのベルトをはじめて獲ったのもメキシコです。海外遠征したことで、プロレスラーとしてすごく自信が芽生えましたよ」
海外での単身生活で苦労はなかったのか尋ねると。
「自分は大変なことはなかったですね。当時はウルティモ・ドラゴンさんが作った闘龍門という団体がメキシコにあったんで、そこの道場に住まわせてもらっていたんです。入門した若手選手が、色々とケアしてくれていたので、すごく快適でした。あの時は、確かオカダ(・カズチカ)もいたし、今はシークレットベースという団体にいるHANAOKA選手などと一緒にCMLLの道場へ行ったり、ご飯を食べたりした思い出しかないですね」
ここで後藤は自分の武器を得た。それが「牛殺し」。メキシコ時代は名前が付いていなかったが、凱旋帰国試合で披露し、技を食らった天山広吉が頚椎損傷で長期欠場に追い込まれたため、その名前がついた。

凱旋帰国で強いインパクトを残した後藤に、団体トップの証であるIWGPヘビー級王座への挑戦機会が与えられる。敗れるも、ファンや関係者から高い評価を受けており、「暗黒期脱却のきっかけとなった試合」とまでいわしめる名勝負となった。
2008年の夏、新日本プロレス、真夏の最強戦士決定リーグ戦「G1CLIMAX」にエントリーされ、初出場で初優勝。当時史上最短キャリアでの優勝者として歴史に名を刻んだ。その勢いのまま、再びIWGPヘビー級王座に挑戦するも敗戦。09年には春のトーナメント戦である「NEW JAPAN CUP」は優勝、しかし団体の最高峰・IWGPヘビー級王座への三度目の挑戦では跳ね返された。
「G1で優勝した時も、NEW JAPAN CUPで勝った時もトップ取った感覚はなくて、『さあここから』だと思っていたんですよ。でも、何回挑戦しても結果が出ない。『俺何しているんだろ』と考えちゃいましたね。何回も挑戦しては負けるのを繰り返していると、挑戦への意気込みも薄れてくるんです。あの時は『俺が挑戦してもいいのかなあ』って感じながら試合していた部分はありましたね」