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「何度やられても、諦めなければ負けじゃない」デビュー22年でIWGP頂点に立った後藤洋央紀の大逆転人生


「諦めたらそこで試合終了ですよ」大人気バスケ漫画「SLAMDUNK」の名文句である。プロレス界にも、諦めることなく最高峰へ辿り着いた男がいた。彼の名は後藤洋央紀。2003年デビュー、2008年には「G1CLIMAX」史上最年少キャリアでの優勝を果たし、一躍注目を浴びる。その後、「NEW JAPAN CUP」最多の3度優勝など数々のタイトルを手にしたが、IWGPヘビー級のベルトだけは8度の挑戦でもつかめなかった。しかし後藤は諦めず、デビューから22年目の2025年、9年ぶり9度目の挑戦で悲願のIWGP世界ヘビー級王座を獲得した。念願だったベルトを手に、新日本プロレスで我が道を邁進する後藤選手に話を聞いてきた。


■ストイックにレスリングに打ち込んだ学生時代

 三重県桑名市に生まれた洋央紀少年が、プロレスに興味を持ったきっかけは近所の友人と一緒に見たプロレスのビデオだった。画面の向こうで大暴れするプロレスラーに憧れを抱き、自分も同じようになりたいと思って、プロレスラーを目指す。

 高校ではレスリング部に入部するも、当時は団体戦も組めないほどの弱小部だった。そこで出会ったのが、レスラー、レフリーとして活躍した柴田勝久を父に持つ柴田勝頼。後藤は、柴田と一緒に部を立て直していく。

「柴田と二人でレスリング部をなんとかしようって頑張っていましたね。顧問の先生は日体大出身だったので、ツテを頼って大学に出稽古に行ったり、春になったら後輩をスカウトして部員を増やしたりしていました。俺らが3年になる頃にはレスリングで推薦入学をもらえるくらい強くなりましたよ」

 以降、後藤の盟友となる柴田は、高校卒業後に新日本プロレスに入門。後藤は国士舘大学へと進んだ。

「俺も柴田みたいに新日本プロレスの入門テストを受けようと思っていましたよ。でも、先に大学の推薦をもらっていたので、そちらを優先しました。受けておけば良かったなと思う時はありましたけど、大学へ進学して良かったです」

 

▲学生時代に磨いたレスリングテクニックは天下一品。レスリング出身の永田裕司とも互角に渡り合った

 

 国士舘大学での生活は練習漬けだった。朝から午後まで練習し、合間に授業を受ける毎日。土曜も2時間の練習をこなした。「2時間」と聞くと短く感じるかもしれないが、レスリングの練習は強度が非常に高く、それ以上は体が持たないほどの濃密なものだった。

 後藤の大学時代の記憶は「練習ばかり」。合コンやバイトをしたこともなかった。土曜日の練習終わりからが唯一の息抜きで、「日曜日は練習が休みなんですよ。寮の点呼が終わったら、新宿とかに出て飲みに行くのが楽しみでしたね」と振り返る。

 厳しい環境で4年間を過ごした後藤は、2001年に全日本グレコローマン85kgで3位入賞を残した。翌02年4月に新日本プロレスに入門をし、プロレスラーへの第一歩を歩んでいく。

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篁五郎

たかむら ごろう

1973年神奈川県出身。小売業、販売業、サービス業と非正規で仕事を転々した後、フリーライターへ転身。西部邁の表現者塾ににて保守思想を学び、個人で勉強を続けている。現在、都内の医療法人と医療サイトをメインに芸能、スポーツ、プロレス、グルメ、マーケティングと雑多なジャンルで記事を執筆しつつ、鎌倉文学館館長・富岡幸一郎氏から文学者について話を聞く連載も手がけている。

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