「人間はどう生きれば良いのですか?」という問いに現代の哲学者は口ごもってしまう…… |BEST TiMES(ベストタイムズ)

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「人間はどう生きれば良いのですか?」という問いに現代の哲学者は口ごもってしまう……

現在観測 第3回

もう一つの現代思想としての「プラグマティズム」

 「大陸哲学」と「分析哲学」とは別に、もう一つの現代思想と呼べるものがある。それは、アメリカの独自の哲学としての「プラグマティズム」である。

 プラグマティズムは、19世紀末から20世紀初頭にかけて、パース、ジェイムズ、デューイという3人の哲学者を中心に論じられた。その特徴として挙げられるのは、「究極的な真理」の否定と二項対立の解体である。そして、プラグマティズムは真理を完全に否定してしまうわけではなく、「真理とは現時点において暫定的に最も上手く説明できるもの」とする立場に立つ。

 しかし、20世紀中頃になってアメリカに流入し、哲学界の主流となった「分析哲学」の観点からすれば、プラグマティズムは曖昧で「哲学」の名に値しないものとされた。そのため、プラグマティズムは20世紀後半には既に過去の思想の一つとして、本国アメリカでも忘れられかけた思想となっていたのである。

 ところが、20世紀後半に、「分析哲学」の内部でも一つの大きな転換が起きる。それを簡潔に説明すると次のようになる。

 論理的に突き詰めて考えたところ、人間は「究極的な真理」に到達することが出来ず、真理を「現時点において暫定的に最も上手く説明できるもの」とするプラグマティズムの立場に近づかざるを得なくなるのではないか…。

 つまり、英米の哲学界においても、20世紀後半には「究極的な真理」の探求の放棄を認める考え方が生じたということを意味する。

 そうなると、次のようなことが言えるのではないだろうか。実は「大陸哲学」と「分析哲学」は、異なった経緯をたどり、お互いに「哲学」と見做し合わないほどに分裂しながらも、結局は同じような結論に至った…。

 この点に着目し、タブーであった二つの現代思想の比較を行いながら、その結論を先取りしていたプラグマティズムを再評価したのが、ローティであった。

哲学と政治

 ローティの独特なところは、プラグマティズムの発想を社会や政治に関わる議論にも拡げた点にある。

 現代の先進国に暮らす人々は、近代的な自由主義や民主主義、基本的人権の保障といった考え方が、社会の在り方として最も正しいものと考えられている。

 しかし、本当にそうなのか?何故それが正しいものといえるのか?と問いかけて、誰もが納得することのできる答えを出すことは、実は極めて難しい。

 伝統的に、社会や政治のあり方、人間の正しい生き方は哲学によって根拠付けられていた。近代の自由で民主的な社会の制度の正しさは、カントなどの近代の哲学を根拠にしている部分が大きい。

 しかし、「大陸哲学」では、近代までの哲学を批判するため、それを根拠とする近代的な自由主義と民主主義をストレートに肯定することはできない。一方「分析哲学」は、純粋な哲学を言語と論理の分析のみに関わるものとして、政治から遊離していた。

 また、どちらの観点をとるにせよ、「究極的な真理」が存在しないと考えるのであれば、近代的な自由主義と民主主義が世界中全ての人間にとって最も正しいものであると言い切るのは難しくなってしまうのである。

 だが、ローティはプラグマティックな観点から次のように論じる。

 たしかに、近代的な自由主義と民主主義が全ての人間にとっての究極的な真理であるとは言えない。様々な問題も抱えている。しかし、それは少なくとも、現時点において歴史上の様々な問題を解決してきた「最も上手くいっている」ものである。

 自由主義と民主主義にも様々な問題がある。しかし、それを完全に放棄してしまうのではなく、問題を少しずつ修正していけば良い。また、全く別の考え方で、それ以上に上手くいく考え方がもし見つかったとしたら、そっちに乗り換えてしまえば良い…。

 そのように、近代的な自由主義と民主主義は現時点において暫定的に上手くいっているものだから(とりあえず)正しいとして肯定するのがプラグマティズムの考え方である。

 マルクス主義と、近代批判の思想である「ポストモダニズム」は、資本主義や近代的な社会の在り方を様々な観点から批判し、革命的に転覆をしようと試みた。しかし、今のところその試みが上手くいったとは言えない。

 あとに残ったのは、政治的無関心という一種のニヒリズムである。だが、そもそも社会を変えるために、全てを革命的に転覆させる必要はない。現実的に、少しずつ問題点を変えていくことができるという「希望」は常に残されている。

 現代の哲学は、このように様々な転回を経て、再び政治や社会の問題と正面から向き合い始めている。たしかに「究極的な真理」は見つからず、「正しい生き方」は人それぞれに異なっていて対立し合っているかもしれない。しかし、だからといって何も出来ないわけではない。問題を一つずつ解決していき、異なった意見を持つ人々がオーケストラとなってハーモニーを奏でる…そういった未来に向けて、どうすれば良いかということを考え続け、とりあえずの答えを出すことは可能であるはずだ。

 このように、哲学というものは、あまりにもたくさんの「転回」を経験してしまった。そのため、「哲学者」とは、極めて多くのものをこじらせてしまっている人々のことを意味するようになった。

 そのことを、この文章を通じて少しでも理解していただけたら幸いである。

 

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大賀 祐樹

おおが ゆうき

1980年生まれ。博士(学術)。専門は思想史。

著書に『リチャード・ローティ 1931-2007 リベラル・アイロニストの思想』(藤原書店)、『希望の思想 プラグマティズム入門』 (筑摩選書) がある。


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