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井笠鉄道【前編】細道として舗装された廃線跡を歩く

ぶらり大人の廃線旅 第3回

 岡山県西端の海沿いに位置する笠岡市。かつては笠岡湾の奥に位置する「備中三港」のひとつとして発展した町であるが、戦後は広大な面積を干拓してカブトガニが棲んでいた干潟は姿を消し、そこに「カブト中央町」というブラックな地名も付けられている。沖合の神島(こうのしま)はこれで陸続きになった。

井原笠岡軽便鉄道がルーツ

 その笠岡の町から北上して井原までの19.4キロを結ぶ軽便鉄道が昭和46年(1971)まで走っていた。すでに45年も経ってしまった今、現役で走っていた姿を記憶している世代は地元でもだいぶ少なくなっているだろう。この年は私が小学校6年生で、初めて買った『鉄道ジャーナル』がその廃線を報じていたのを覚えている。気動車も客車も、果ては創業時からの小さな蒸気機関車に至るまで、手持ちの雑多な車両をみんな繋げたようなスタイルで、「ありがとうございました」という横断幕を車両の側面に掲げて農村風景の中を走る写真を見て、子供心になんとも寂しい印象が焼き付けられた。人口急増中の横浜市郊外で育ったので近場にそんな事例はなく、これが初めて鉄道の「廃線」を意識した瞬間だったように思う。

 井笠鉄道は今から100年少し前の大正2年(1913)に笠岡〜井原(いばら)間で営業を開始した。大正10年には途中の北川で分かれて山陽道の宿場町である矢掛(やかげ)、同14年には終点の井原から高屋までの支線(後に神辺まで)も開通し、小田郡、後月(しつき)郡の足として地元の発展に貢献した。線路の幅は762ミリ(2フィート6インチ)で、JR在来線の1067ミリ(3フィート6インチ)より30センチほど狭く、レールも山陽本線の3分の1ほどの軽いものを使った軽便鉄道の規格で敷設されている。これは鉄道を津々浦々に普及させるために当時の政府が規制緩和策として導入した軽便鉄道法の施行に呼応し、地元資本によって設立された井原笠岡軽便鉄道によるものであった。しかしこの「軽便の規格」が後にスピードや輸送力の点でネックとなり、戦後の急速なモータリゼーションで強敵として現われたバスやトラックに抗することがにできずに昭和42年(1967)に矢掛・神辺支線が、同46年には本線も消えていったのである。             

写真を拡大 大正末の地形図に描かれた井笠鉄道(井笠軽便鉄道と表記)。1:50,000地形図「玉島」大正14年(1925)修正

写真を拡大 「大正の広重」と呼ばれた鳥瞰図の第一人者・吉田初三郎による「井笠沿線を中心とせる備南交通絵図」観光社 昭和5年(1930)

今も残る線路跡の細道

 岡山から笠岡までは山陽本線の普通列車で45分ほど。8月9日の炎天下、特にこの日はおそらく37度は下らない最高気温の予想ではあったけれど、岡山の就実大学で行われた日本地図学会大会の日程の合間を縫っての取材となったので、歩きのスタートは午後2時という最も暑い時間である。熱中症予防のための飲料を用意しつつ炎暑の笠岡駅前から廃線をたどった。
 昭和25年(1950)修正の1:25,000地形図「笠岡」「矢掛」の2図をあらかじめコピーして線路を新図に転写して用意したが、これと詳しい市街図を対比してみると、廃線跡は大半が細道として使われているようだ。山陽本線の線路に沿って福山方面へ歩けばまず渡ったのが隅田川。東京以外にこの名の川があるとは知らなかった。細い川ながらも海が近いのでかすかに潮の香りがする。線路跡の細道は舗装されているが、ほとんどの区間が自転車・歩行者専用道で自動車は通らないので落ち着いて歩けるのがいい。もっともこれだけ炎暑だとそんな雰囲気ではないけれど。軽便とはいえ鉄道特有の緩いカーブで、そのうち右手の家並みより少し高くなっていよいよ線路らしくなってきた。この土手を小さな蒸気機関車が煙を上げて走っていた姿を想像する。
 容赦なく太陽が照り付けている一方で、北側の空には怪しい黒雲が出てきた。早晩降られるのは間違いなさそうだが、家を出るときに傘を忘れてきたのでコンビニで折り畳みを買おうと思ったが売り切れ。これはどこかで雨宿りを覚悟しなければならない。

笠岡駅から鬮場(くじば)へ向かう市街地の細道として残っているカーブの区間。
 

難読駅・鬮場には車庫があった

 しばらく歩くと笠岡から数えて最初の駅・鬮場(くじば)駅の跡地。この「鬮」という字は大きく拡大しなければ書き写すことも難しい字である。門構えに似た「たたかいがまえ」に亀の旧字体を書かなければならないのだから大変だ。並走するバス停は「くじば」と平仮名であった。クジ(他に久慈、久地など)という地名は「長く連なった高まり」や抉(くじる=えぐる)から崩壊地名説もあるようだが、当地のは山裾であり、また山並みでもあるけれど、どうだろうか。
 この鬮場駅は笠岡高校、笠岡商業高校が近くに集まっており、鉄道があった頃は通学生で賑わったという。小さな車庫もあったというが、その跡地は「デイサービスくじば」「老人保健施設くじば苑」(いずれも平仮名)などの敷地になっている。さらに家並みの中をほぼまっすぐ続く廃線跡を歩くが、さすがにこれだけ暑いと、歩いている人をさっぱり見かけない。ほどなくバスの走る県道をくぐるが、あまりに急な勾配なので、これは廃線後にアンダーパスに改造したものらしい。旧版の地形図を見てもやはり踏切の表現になっていた。
 このあたりは田頭(たがしら)という地区である。徐々に田んぼが見えて右側は森となってくるが、ずっと上り勾配だ。ざっと20パーミルほどもあるだろうか。小さな蒸気機関車ではキツイ上り坂だったに違いない。溜池を過ぎた頃にいよいよポツリと雨が落ちてきた。黒い雲なので数分後に本降りとなるのは確実なので、隠れ場所を探すと、うまい具合に新しい架道橋の下の旧道に避難することができた。やはりすぐに土砂降りとなる。雨音を聞きながら約20分、そのうちに止んで晴れ間がのぞく。

森の脇をゆく鬮場〜大井村間の廃線跡。歩行者・自転車道として使われている。

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今尾 恵介

いまお けいすけ

1959年横浜市生まれ。中学生の頃から国土地理院発行の地形図や時刻表を眺めるのが趣味だった。音楽出版社勤務を経て、1991年にフリーランサーとして独立。旅行ガイドブック等へのイラストマップ作成、地図・旅行関係の雑誌への連載をスタート。以後、地図・鉄道関係の単行本の執筆を精力的に手がける。 膨大な地図資料をもとに、地域の来し方や行く末を読み解き、環境、政治、地方都市のあり方までを考える。(一財)日本地図センター客員研究員、(一財)地図情報センター評議員、日本地図学会「地図と地名」専門部会主査、日野市町名地番整理審議会委員。主著に『日本鉄道旅行地図帳』『日本鉄道旅行歴史地図帳』(いずれも監修/新潮社)『新・鉄道廃線跡を歩く1~5』(編著/JTB)『地形図でたどる鉄道史(東日本編・西日本編)』(JTB)『地図と鉄道省文書で読む私鉄の歩み1~3』『地図で読む昭和の日本』『地図で読む戦争の時代』 『地図で読む世界と日本』(すべて白水社)『地図入門』(講談社選書メチエ)『日本の地名遺産』(講談社+α新書)『鉄道でゆく凸凹地形の旅』(朝日新書)『日本地図のたのしみ』『地図の遊び方』(すべてちくま文庫)『路面電車』(ちくま新書)『地図マニア 空想の旅』(集英社)など多数。


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