柱の形状と大きさは、現在の社殿と釣り合っていない。タワーのための柱と考えるほかはない(柱のレプリカだけで、腰を抜かすほど)。倍の大きさとしても、現代人が想像できない巨大社殿が、出雲には屹立していたのだ。

 出雲大社創祀のきっかけが興味深い。出雲の国譲りの物語の最後の部分だ。『日本書紀』神代下第九段一書第二には、高皇産霊尊(たかみむすひのみこと)が大己貴神(おおあなむちのかみ)(大国主神(おおくにぬしのかみ))に次のように言い渡したと記されている。

「この世の政事(まつりごと)は、これからは皇孫が治める。大己貴神は幽界の神事を司るように。おまえには天日隅宮(あめのひすみのみや)を造ってやろう」

 この場面、高皇産霊尊はやや高飛車な態度だが、『古事記』は別の説話で、「祟る出雲神が巨大な出雲大社建立の端緒だった」といっている。第十一代垂仁(すいにん)天皇の御子・本牟智和気(ほむちわけ)が、成人しても言葉を発することができなかった。垂仁天皇は心配されたが、夢に神が現れ、「私の宮を天皇の御舎(みあらか)のように整えれば、御子は言葉を発するだろう」というので、占ってみると、「その祟りは出雲大神の御心だ」とわかった。
  そこで本牟智和気を大神の宮に参拝させたとある。
  やはり、出雲の神は祟ったのだ。

 それが恐ろしかったからこそ、巨大な社殿を用意したことになる。恐ろしかったからこそ、それに比例して、社殿は大きくなっていったのだろう。

   出雲をめぐるもうひとつの謎は、出雲国造家と祖神の天穂日命(あめのほひのみこと)だ。神話の中で天穂日命は国譲りの工作員として天上界から送り込まれるが、出雲に同化してしまい復命しなかった。

 ところが国譲りののち、天穂日命の末裔が出雲の神を祀り、国造に任命されていく。天津神にとって天穂日命は裏切り者だ。それにもかかわらず、なぜ出雲の支配者に抜擢されたのだろう。そして、七世紀から八世紀にかけて律令制度が整って「国造」の制度は廃止されたにもかかわらず、今日に至るまで出雲にだけ「国造家」が残り、人びとの尊崇を集めているのは、不思議なことなのである。

古代神道と神社 天皇家の謎 異端の古代史①POP①1面 古代神道と神社 天皇家の謎 異端の古代史①POP①1面