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信長の跡目を争った清洲会議の舞台

信長の尾張統一への本拠・清洲城 第3回

織田信長肖像画/写真提供アフロ
天下統一を目指す過程で、最もTPOに適した場所に城を移していった信長。先進かつ合理的だった移転の狙いとは? 歴代の居城をたどってみる。

清洲城は「清洲と云う所は国中の真中にて富貴の地なり」と『信長公記(しんちょうこうき)』に書記されているとおり、尾張国の中心に位置し、守護所の中心的役割を長く果たしてきた城である。

五条川が形成した自然堤防上に立地する。守護所として移転して以降は、川の東の小牧街道、那古野街道、鎌倉街道、津島街道が合流する結節点、交通の要衝である地に築かれた200メートル四方の堀で囲まれた方形居館を中心としている。居館の南北には武家屋敷群、さらにその外側の街道沿いに町屋部を持っていた。信長はこの中世的な形の城をそのまま摂取した。

『信長公記』には、南大櫓や北櫓にある天主(殿主=主殿)、次の間などの記載があることから、御殿だけではなく、大櫓を中心としたかなりの建物群が存在していた大規模な城であったことが判る。一説には信長が大改造したとする説もあるが、近年大改修は織田信雄(のぶかつ)段階であるとされている。

信長が小牧山に城を移した後も、清洲城は城番を置く形で存続していた。天正10年(1582)、本能寺の変で信長が絶命。その後の相続問題を解決する場、いわゆる「清洲会議」が開かれた場所としても有名である。

会議では、信長の跡を信忠の子三法師(さんぼうし)が継ぐことになり、清洲城は次男の織田信雄の居城となった。(続く)

 

●清洲城データ
城の種類/平城
所在地/愛知県清須市一場
築城年/応永12年(1405)
施設/御殿、本丸、櫓、土塁、堀

 

文/木戸雅寿(きど・まさあき)

1958年神戸市生まれ。奈良大学文学部史学科考古学専攻卒業。広島県草戸千軒町遺跡調査研究所、滋賀県安土城郭調査研究所を経て、現在滋賀県教育委員会文化財保護課。専門は日本考古学。主な著書に『よみがえる安土城』(吉川弘文館)、『天下布武の城 安土城』(新泉社)等。

 

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