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信長が生まれたのはどんな城?

信長の歴史の原点・勝幡城の謎

織田信長肖像画/写真提供アフロ

 

天下統一を目指す過程で、最もTPOに適した場所に城を移していった信長。先進かつ合理的だった移転の狙いとは? 歴代の居城をたどってみる。

 

勝幡城(しょばたじょう)は、尾張国の海東郡と中島郡にまたがる位置にある。古くは、永正年間(1504~1520)に織田信長の祖父にあたり、尾張下四郡守護代織田大和守(やまとのかみ)で清洲三奉行であった織田弾正忠(だんじょうのちゅう)信定(のぶさだ)が、尾張国の海西郡を手中に収めた際に築城した城といわれている。この地は元々「塩畑(しおばた)」と呼ばれていたが、縁起を担ぎ「勝ち旗」の意で「勝幡」と改名したといわれている。 

天文元年(1532)、信定は嫡男信秀(のぶひで)に家督を譲って隠居。この時に信定は木ノ下城に移り、勝幡城は信秀に与えた。

信定の跡を継いだ信長の父信秀は、天文年間から尾張でその頭角を現し、主家を圧倒し始めた。天文3年(1534)、信秀は東南地域に備えるために古渡城(ふるわたりじょう)を築城し、そこから今川氏豊(うじとよ)を攻め、那古野城(なごやじょう)を奪ってそこに移った。そして、那古野城で生まれた信長に(一般的には那古野城説が強いが勝幡城で生まれたとする説もある。)この城を譲り、勝幡城には家臣の武藤雄政を城代として置き、自らは古渡城を拠点とした。これにより勝幡城は廃城となったのである。

勝幡城は、現在の愛知県愛西市勝幡町に位置する。城は伊勢湾に流れ込む日光川上流の領内川と三宅川の合流部分に突出した三角州上に築かれた。残されている「勝幡村古城絵図」によると、本丸は東西29間、南北43間、幅3間の方形*土塁に囲まれ、さらにその外に二重の堀で囲んでいた城館スタイルの城であり、三宅川が外堀の役目をしていたと推定される。

土塁の内側には、室町幕府の武家儀礼に則った立派な御殿形式の建物があったと考えられるが、現在は区画整理や宅地化によって城の遺構は全く残っておらず、民家の東側の公園に建てられている石碑だけが当時の城の位置を示している。

 

文/木戸雅寿(きど・まさあき)

1958年神戸市生まれ。奈良大学文学部史学科考古学専攻卒業。広島県草戸千軒町遺跡調査研究所、滋賀県安土城郭調査研究所を経て、現在滋賀県教育委員会文化財保護課。専門は日本考古学。主な著書に『よみがえる安土城』(吉川弘文館)、『天下布武の城 安土城』(新泉社)等。

 

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