◆月形潔にちなんでつけられた「月形町」

 内務省管轄の樺戸集治監の典獄(刑務所長)となった潔は、福岡からこの地に本籍を移すほど、本気だった。中央での栄達は難しかったから、腹を括るしかなかったのかもしれない。潔は行政全般の長も兼ね、村名は明治十四年七月、「月形村」と定められた。そもそも「月形」は、福岡藩に仕えた儒学者の家だ。それが北海道の地名になった。感激した潔は「月形死しても月形死せず」と、周囲の者に語ったと伝えられる。
 赤い服を着せられた囚人たちは二人ずつ鎖で繋がれ、開拓に従事させられた。こうして石狩平野に開拓・軍事道路が通じてゆく。囚人数は、多い時は二千三百人を数えたという。しかし、苛酷な労働に耐え兼ね、逃走する者もいた。犠牲者も多く、明治十四年には三十八人、十五年には百十九人、十六年には五十五人、十七年には六十九人、十八年には五十九人が亡くなった。「維新のバス」に乗り遅れた潔が、やはり乗り遅れた囚人を酷使し、開拓を進めてゆく。
 また、潔は明治十五年、福岡から北海道の当別に、新天地を求めて移住して来た士族たちのため、義援金を集めるなどの支援をしている。かれらは同十七年、篠路村(現在の札幌市東区)に移り、集落名を「福移(ふくい)」とした。福岡から移って来たとの意味だ。
 だが、政府は潔のやり方を、「専断処行」が多すぎると非難。ついに明治十九年四月、免職してしまう。このため潔は、すべての官位も奪われて、三十九歳で福岡に帰った。そして玄洋社に参加したり、九州鉄道実現などで中央とのパイプ役を務めたりと、故郷発展に協力して、同二十七年一月八日、博多中洲の自宅で病没した。享年四十八。
 いまも、樺戸郡月形町では潔を「開拓の恩人」として称え、顕彰碑や胸像なども建てられている。また福移には、福移小学校(校章は福岡藩主黒田家の紋と同じ)や福移神社があり、近代化の大波の中で故郷から遠く離れねばならなかった人々の思いを伝える。