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しっくりいっていなかった毛利3兄弟の仲

毛利元就の遺言状 第2回

毛利元就肖像画(東京大学史料編纂所所蔵模写)

 

謀略を駆使して、弱小領主から一代で中国地方を制覇した毛利元就。その死に際に、3人の息子に語ったとされる「3本の矢」の逸話は後世の創作とされるが、その遺訓には明治維新まで続く毛利家を守った「知恵」が秘められていた――。

 

元就は吉田の郡山(こおりやま)城(注)に凱旋すると、この3人の息子たちに、14カ条からなる教訓状を送った。この頃、3兄弟の仲はしっくりいってなかった。

隆元はやさしい性格ゆえに統率者としての強さに欠け、弟2人は兄を敬遠して寄りつかず、元春と隆景の仲も悪かった。また隆元の家臣たちも、養子に出た2人が宗家の内政に口出しすることを嫌った。

一方、急速に勢力を拡大する毛利家の組織造りが追い付かず、どうしても息子3人の結束・協力が不可欠だったのだ。

そして元就には信頼できるのは家族だけという、強い人間不信があり、それが兄弟結束の教訓状を書かせたといえる。

元就は両親に死別して10歳で孤児となった。親が遺してくれた多治比(たじひ)300貫の土地は後見人の井上元盛に奪われ、兄興元(おきもと)は京にあり、絶望的な境遇に陥る。

だが、たった1人、父の側室だった杉の大方が幼い元就に同情し、婚期を逃してまで懸命に養育してくれたのだ。この彼女から念仏の大切さを教えられた。

教訓状では、自分は毎日、朝日を拝み、念仏を10遍ずつ唱えているといい、息子たちも見習うように求めた。

これに対し、息子3人は連署をもって、「堅く守ります」と誓書を提出した。これ以降、毛利氏を吉川・小早川領家が結束して支える、両川(りょうせん)体制が確立された。(続く)

 

注/毛利元就の孫・輝元が広島城へ移るまでのあいだ居城としていた。築城初期は小規模な城だったが、毛利氏の勢力拡大とあわせて拡張され、吉田郡山全体を要塞とする巨大城郭となった。

 

文/楠戸義昭(くすど よしあき)

1940年和歌山県生まれ。毎日新聞社学芸部編集委員を経て、歴史作家に。主な著書に『戦国武将名言録』(PHP文庫)、『戦国名将・知将・梟将の至言』(学研M文庫)、『女たちの戦国』(アスキー新書)など多数。

 

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