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戦争当時の遺物がそのまま残る亜熱帯の要塞

世界遺産登録から5年 小笠原諸島のもうひとつの歴史的遺産

大戦末期に起きた悲劇「小笠原事件」

写真を拡大 母島最初の海軍施設だった母島海面砲台の弾薬庫

 戦局が進んだ昭和19年(1944)になるとそれが一変する。5月に大本営直轄の小笠原兵団が設けられ、兵団長の栗林忠道中将が新編された第109師団の長となり、島民を本土に強制疎開させて陣地構築を急がせた。
 アメリカ軍のサイパン上陸によって絶対国防圏が破られた6月に、初めて空襲や艦砲射撃を受ける。だが昭和20年(1945)3月に米軍が硫黄島を占領した後は、父島と母島は戦略的価値が低かったため海上封鎖と散発的な空襲、艦砲射撃のみで上陸はされずに終戦となった。降伏した2万名を超える両島の将兵は翌年2月に復員が完了した。
 硫黄島玉砕の報を受けて栗林忠道の後任の師団長となり、降伏調印したのは立花芳夫中将だった。複数の米軍捕虜を斬殺して人肉を食した「小笠原事件」で捕虜殺害と死体損壊の罪を問われ、戦犯として処刑された男である。
 当時、食料の備蓄はじゅうぶんあり少なくとも高級将校は危機的な飢餓状況になかったのに、硫黄島で激戦が繰り広げられたのと同じ頃に非道な犯罪を犯した。人望篤く玉砕まで戦い抜いた前任者の栗林忠道と対照的な人間性に驚かされる。
 終戦後、アメリカ軍の施政下におかれた小笠原諸島は昭和43年(1968)日本に返還された。陸戦がなく内地から遠く離れていたため、当時の遺跡が今もなおそのままの姿で数多く残されることになった。平成14年の村の調査では、父島58ヶ所、母島22ヶ所、あわせて80ヶ所の遺跡が挙げられている。
 終戦時に米軍により無力化された状態で赤錆びた砲身が屹立する高角砲、高射砲、榴弾砲、加濃砲など大型の火砲から、一升瓶や茶碗といった生活を垣間見られる日用品まで、内地では考えられないほど状態はよい。なかには電探関連の遺構、大発(陸軍の大型発動艇)や米軍機の残骸、トロッコ壕など珍しいものもあり、世界遺産になった自然とともに観光資源になっている。

東京竹芝桟橋から父島まで25時間30分(最短往復5泊6日)、母島は父島から2時間。一部私有地であることや自然保護、安全の観点から見学にはガイドを伴うとよい。
小笠原村観光協会 http://www.ogasawaramura.com/

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飯田 則夫

いいだ のりお

昭和37(1962)年、茨城県生まれ。大学卒業後、システムエンジニア、編集プロダクション勤務などを経て、フリーランスライターとして独立。「予科練」など旧海軍航空隊が身近な環境で育ったことから、近代日本の足跡を知る歴史素材として、学生時代より旧軍史跡に興味を持ち、各地を探索してきた。

著書に『図説 日本の軍事遺跡』(ふくろうの本)、『TOKYO軍事遺跡』(交通新聞社)、『大日本帝国の戦争遺跡』(KKベストセラーズ)などがある。


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