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地図から消された軍事島を行く

いまでも生々しく残る毒ガス工場の痕跡

毒ガス製造の一大拠点

 瀬戸内海に浮かぶ大久野(おおくの)島は、豊かな自然を利用して島全体が国民休暇村になっている周囲4・3キロの小島。たくさんのウサギが観光客を迎える現在の様子からは想像できないが、かつてここは毒ガス製造の一大拠点だった。

建屋だけが残る火力発電場

 島と軍隊の関係は明治時代に島を含む一帯が要塞地帯となったことに始まる。
 日露戦争直前の明治33年(1900)から翌々年にかけて、芸予要塞の一部として島内に3つの砲台が構築された。大正13年(1924)に要塞は軍縮で廃止されるが、昭和4年(1929)、陸軍造兵廠火工廠忠海兵器製造所(のち東京第二陸軍造兵廠忠海製造所)が開設される。倒産しない軍需工場は、昭和不況で沈んでいた町に活気を与え、人々は「久野島景気」と呼び歓迎した。ただし、当時そこで何が造られるのか知る者は少なかった。
 毒ガスは第一次世界大戦で初めて使われ、その効力が実証された。その後非人道性から国際法で禁止されたが、各国で極秘に研究が進められており、日本もこれに倣った。
 製造拠点として大久野島が選ばれたのは、秘密保持と公害の面で居住地から隔絶された立地が適していたため。立ち退かせる島民も少なく要塞用地や施設が使えたのも考慮されたといわれる。
 盛大に開所式が行われ、工場は稼働を始めた。地元を中心に千名を越える人々が、毒ガス製造の事実を知らずに就職し、他の軍事施設同様に地図から消された島でこれに携わった。
 現在、休暇村の本館が建つあたりに工場が建ち並び、島全体が毒性の煙で覆われる環境で、猛毒のルイサイトやイペリットなど多様な毒ガスが造りだされた。作業ではゴム製の防毒マスク、衣服、手袋、長靴などで完全に身体を覆ったが、それでも隙間からガスが入り、結膜炎や肺炎などさまざまな病気を引き起こしたという。

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飯田 則夫

いいだ のりお

昭和37(1962)年、茨城県生まれ。大学卒業後、システムエンジニア、編集プロダクション勤務などを経て、フリーランスライターとして独立。「予科練」など旧海軍航空隊が身近な環境で育ったことから、近代日本の足跡を知る歴史素材として、学生時代より旧軍史跡に興味を持ち、各地を探索してきた。

著書に『図説 日本の軍事遺跡』(ふくろうの本)、『TOKYO軍事遺跡』(交通新聞社)、『大日本帝国の戦争遺跡』(KKベストセラーズ)などがある。


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