■家康暗殺計画が発覚! 迅速な対応と処断

徳川家康(「肖像及伝記」国立国会図書館蔵)、増田長盛(「肖像集」国立国会図書館蔵)、浅野長政(「浅野長政公伝」国立国会図書館蔵)、前田利長(富山県高岡市)

 慶長5年(1600)9月の関ヶ原合戦の布石として、前田利長・浅野長政らによる徳川家康暗殺計画は重要である。この事件は、『義演准后日記』といった一次史料のほか、多くの二次史料でも取り上げられている。
 慶長4年9月7日、家康は重陽の節句を祝うため、伏見から大坂城の秀頼・淀殿母子のもとを訪れた。すると、五奉行の一人である増田長盛の密告があり、家康暗殺の計画のあることが露見したのである。首謀者は驚くことに五大老の1人・前田利長であり、加担した者は土方雄久、大野治長そして五奉行の1人・浅野長政という面々であった。
 土方雄久と大野治長とは、ともに秀頼の家臣である。また、長政の子・幸長の婚約者は利家の娘であり、利長と利害関係にあった(正妻は、池田恒興の娘)。密かに彼らは、大坂城内で家康を暗殺しようと目論んでいたという。とりわけ雄久と治長が関わっていたことは、豊臣家に累を及ぼす可能性があったといえる。
 長盛の通報を受けた家康は、ただちに本多正信、本多忠勝、井伊直政といった重臣を集め、暗殺計画への対応を協議した。結果、伏見城から軍勢を呼び寄せ警固を万端整えて、家康の大坂登城を予定どおり行うことにしたのである。こうして無事に重陽の節句を終えると、家康は居所を伏見から大坂城西の丸に移し、新たに天守を築いた。結果的に、家康の身に何も起こらなかったのである。
 家康が豊臣家の懐というべき、大坂城西の丸に居所を移したことには、大きな意味があった。笠谷和比古氏が指摘するように、家康は自らが秀頼と並び立つ存在であることを天下に知らしめたのである(笠谷:2008)。これにより、家康は豊臣政権下における地歩をしっかり固めたといえよう。
 もちろん、首謀者であると疑われた面々は許されることなく追及され、家康は彼らに厳しい処分を科すべく検討していた。利長以下の首謀者は、その後どのような処分を受けたのであろうか。前田利長を除く、土方雄久、大野治長、浅野長政の処分内容は、それぞれ①土方雄久は常陸国に配流、②大野治長は下総国に配流、③浅野長政――奉行職を解職し、家督を子息・幸長に譲らせ、国許の武蔵国府中で蟄居、ということになった。
 彼らには死罪が科されなかったので、かなり寛大な措置だったといえよう。彼らは豊臣家の古くからの家臣だったので、豊臣家を必要以上に刺激しないという配慮があったのかもしれない。
 上記の3人に対しては、比較的軽い処分で済ませた。しかし、前田利長に対しては、かなり強硬な姿勢で臨むことになった。

                              後半に続く

 

【主要参考文献】
笠谷和比古『関ヶ原合戦―家康の戦略と幕藩体制―』(講談社学術文庫、2008年)
水野伍貴「加賀征討へ向かう動静の再検 ―会津征討との対比を通して―」(『十六世紀史論叢』第11号、2019年)
渡邊大門『関ヶ原合戦は「作り話」だったのか―一次史料が語る天下分け目の真実―』(PHP新書、2019年)