英米両海軍の“数”と“物量”に立ち向かうため、“個”と“質”の威力で対抗する道を選んだ日本海軍。その選択によって動き出した「大和」建艦。基本計画主任に任命された福田啓二造船大佐をはじめとして国運を託された面々のプレッシャーは現代社会では到底味わうことなどできない想像を絶するものだったに違いない。
 その重圧の中、彼らの人柄や思想、その情熱によって造られた渾身の作が戦艦「大和」なのである。軍艦という戦争兵器としてだけではなく、彼らの想いが詰まったモニュメント(建造物)というベクトルで見ることによって今までとは異なる大和への感情、そして彼ら技術者に対するリスペクトの念が湧いてくるのではないだろうか。(原勝洋 編著『戦艦大和建造秘録 完全復刻改訂版』より構成)

◼️日本海軍が140番目に設計した新戦艦の建造が動き出す

全力公試時の大和。本艦は世界最大の戦艦として有名だが、設計上の苦心は艦型を小さくまとめる点にあったといわれる。徹底した集中防御方式を採用して おり、直接防御はバイタルパートに重点的に施した。したがって艦の前後は間接防御となり、後にこのことが戦闘被害時の大量浸水につながって問題視された

 海軍艦政本部は、第三次補充計画の機密保持を考慮して、仮名称使用に関する決裁を大臣から取り付けた。仮名称は、艦船が命名されるまで海軍一般に使用するものである。

 将来「大和」となる戦艦の仮名称は、「一二戦一」から新仮称名「第一号艦」に決定された。艦型仮名称は「第一号艦型」で、「第二号艦」が「武蔵」命名されることになる。

 第三次補充計画は、「③計画」の略語を使用することが決定し、「第一号艦」関係書類は、日本海軍における最高の秘密指定、「軍機」の取り扱いとなった。そして「③計画」は、「昭和12年度予定経費要求説明」として第七十帝国会議に提出されたのである。

 日本海軍が入手した情報は、英米両海軍の拡張計画の詳細を教えていた。

 英国は主力艦25隻航空母艦12隻その他を含む200万トンの保有を計画し、シンガポール、香港の防備強化に巨費を投じつつあった。一方米国は、ビンソン・トランメル法案によって補助艦102隻の建造、1936(昭和11)年に主力艦2隻の代艦建造着手、1938(昭和13)年には条約海軍の2割増しの主力艦3隻、航空母艦2隻、その他合わせて190万トンの大建艦計画を決定していた。

 日本海軍は、こうした米海軍建造計画の戦艦重視の隻数に対抗する見込みが立たないことから、個艦の威力でこれを圧倒するため、18インチ砲搭載艦4隻の建造を計画し、そのうち2隻を「③計画」に盛り込んだのだった。

 軍艦の建造は、人、設備そして材料を主な要素とする総合工業であり、背景には裾野の広い一般工業力が必要だった。

「大和」となる46センチ砲搭載艦は、1910(明治43)年以来のアウトレンジ思想(敵の火砲や航空機の航続距離など相手の射程外から一方的に攻撃を仕掛ける戦術)、ワシントン条約で廃艦となった未成戦艦「土佐」の実艦防御実験により確認された水中弾道効果を考慮した水線下防御、日本海軍における二大不祥事(水雷艇「友鶴」の転覆と第四艦隊事故)の原因たる復原性と構造強度欠陥の解決、駆逐艦「朝潮」の二節振動の共鳴によるタービン翼亀裂問題、ジュットランド海戦(ユトランド沖海戦)の戦訓とそれを設計に織り込んで完成した英国戦艦「ネルソン」級の分析等によって、世界最強無比のものとするため、全智能を動員、心血を注いで完成させる産物である。

「大和」は、設計中「A140」と略称されていた。番号は日本海軍が140番目に設計した戦艦たることを示す。

 戦艦の設計は、1917(大正6)年起工された「長門」型に引き続き、1920(大正9)年頃の排水量42,700トン、速力29.75ノットの「紀伊」型、そしてワシントン条約の戦艦建造休日明けに備えた「金剛」型代艦の35,000トン型戦艦が最後で、いずれもロンドン条約によって「海軍休日」延長(5年間)となり、実現を見ずにいた。

 海軍艦政本部は、軍令部新提案の主砲18.11インチ(46センチ)砲8門以上、副砲15.5センチ砲3連装4基12門または20センチ砲連装4基8門、速力30ノット以上、防御力は主砲弾に対して2万~3万5,000メートルの戦闘距離に堪え、航続力は18ノット(時速33.336㎞)で8,000浬(1万4,816㎞)という内容を満たすための新戦艦の研究に着手した。

 白紙の段階からどんな特質を持つ艦に纏めるかの研究設計の出来上りは、担当した設計責任者の人柄や思想が端的に表れるものである。

「大和」の中甲板甲鈑配置図
戦艦は機関搭載ののち、同区画の上にこのように厳重な装甲を施す。そのため機関据付け後は、それに不具合が生じても簡単に換装することは出来ない。本艦が燃費の上で有利なタービン・ディーゼル併用案を断念したのは、当時の国産大出ディーゼルの信頼性に一抹の不安があったからだといわれる
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