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世界最強の誉れ高きアメリカ海兵隊

第二次大戦海兵隊列伝⑤ ~碧海から緑陸へと殴り込む精鋭部隊~

■世界最強の誉れ高きアメリカ海兵隊

ペリリュー島の戦いで第1海兵戦車大隊のM4シャーマン中戦車の支援を受けて戦闘中の海兵隊員。アメリカ海兵隊は戦車や砲兵だけでなく、戦闘機や爆撃機を装備した海兵飛行隊まで傘下に擁していた。

 今日、世界最強を謳われるアメリカ合衆国海兵隊。だがその始まりは、酒場で募兵が行なわれたというエピソードが語られるほど小さな組織であった。アメリカ独立戦争勃発直後の1775年11月10日、同議会は前宗主国イギリスの海兵隊を真似て、大陸海兵隊2個大隊の創設を決定。フィラデルフィアのキング・ストリートにある酒場タン・タバーンで、経営者ロバート・ミューレンにより最初の海兵隊員の募集が行なわれた。

 かくした誕生した大陸海兵隊は、マサチューセッツ、ヴァージニア、メリーランドの各州が募集した州海兵隊と統合され、1798年7月11日にアメリカ合衆国海軍の麾下となった。当時は予算不足で海兵隊将兵へは被服の供与もままならなかったが、ただひとつだけ、必ず支給されるものがあった。それは軍服の襟に巻く革製のカラー(Leatherneck)で、整列時に頭を直立させるための補助の役割をはたすものとも、戦闘時に首を斬られないよう防護するためのものともいわれているが、これが海兵隊とその隊員が「レザーネック」の愛称で呼ばれるようになったルーツである。

 以降、国内の政治的反対や他の軍種からの圧力に耐えつつ、海兵隊は戦争以外の紛争や国際警察活動などにも数多く出動し、その名声を徐々に高めてゆく。1805年のトリポリでの海賊討伐、1847年のメキシコ戦争での「モンテズマの殿堂」への進撃、第1次大戦でのフランスのベローの森での死闘など、海兵隊は常に勇猛に戦った。ちなみに、この三つの戦いのうち前の二つは海兵隊隊歌『海兵隊讃歌』の歌詞の冒頭で謳われ、三つめのベローの森の戦いにも興味深い逸話がある。その屈強ぶりに手を焼いたドイツ軍は海兵隊員を「悪魔の犬」と呼んだが、捕虜からこれを聞き出した海兵隊は、直後にブルドッグ(本来は牡牛と闘わせる闘犬として作出されたが実際は意外に温和な性格)を公式のマスコットとして採用。なお、掛け声とも唸り声ともつかない海兵隊員同士の挨拶の言葉「ウォー・ラァー(Oo-Rha!)」は、ブルドッグの唸り声を模したともいわれる。

 海兵隊独特の言葉といえば「協力して任務遂行」とか「やり抜こう」といった意味合いの「ガン・ホー(Gung-Ho)」という掛け声も有名だが、これは中国語の「工和」から転じたもので、朝鮮や中国にも出兵した歴史のある海兵隊ならではといえる。また、海兵隊の初期のモットーは「不屈たれ(Fortitudone)」だったが、のちに「海から、そして、陸から(By Sea and By Land)」へと変わり、さらに第8代海兵隊司令官チャールズ・マコウレー海兵大佐によってラテン語の「常に忠実たれ(Semper Fidelis、省略されSemper Fiと称されることが多い)」へと変更され、海兵隊精神の象徴として今日まで継承されている。

 第2次大戦参戦時、アメリカ海兵隊はわずか約65900名だけだった。しかし急速な拡張を実施し、最終的には約669000名が従軍したが、これはアメリカの総従軍人口のわずか5%にも満たない数字である。にもかかわらず、海兵隊はアメリカが同大戦で被った全死傷者数の約10%にも相当する、戦死および戦闘中行方不明約19700名、戦傷約67200名という損害を出している。また、アメリカ全軍将兵の実戦参加をともなう海外出征率は平均73%だが、海兵隊のそれは実に95%に近かった。それだけ「海兵隊員はすべからく実戦に参加する」という不文律が守られていたわけだ。

 第2次大戦では、太平洋戦域での強襲上陸作戦の先鋒として、タラワ、ペリリュー、硫黄島、沖縄などで日本軍と死闘を演じた。勇猛果敢かつ志願制が基本の海兵隊員は、アメリカでは特別な存在と見なされており、退役者であってもメディアなどでは海兵隊員は海兵隊員として扱われる。

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白石 光

しらいし ひかる

戦史研究家。1969年、東京都生まれ。戦車、航空機、艦船などの兵器をはじめ、戦術、作戦に関する造詣も深い。主な著書に『図解マスター・戦車』(学研パブリック)、『真珠湾奇襲1941.12.8』(大日本絵画)など。


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