■偉大な科学者になるに至るまで、何がキュリー夫人を作り上げたのか!

 歴史上の人物に迫るには様々なアプローチがあるが、ここでは四柱推命(しちゅうすいめい)という手法を用いて、歴史上の人物がどんな性格であり、なぜ成功したのか(失敗したのか)を読み解く。※四柱推命と用語の説明はページの最後をご覧ください。

 今回は、ポーランド出身の偉大な科学者・キュリー夫人を四柱推命鑑定する。非常に頭がよく研究者として成功する星を持つ反面、人に裏切られやすく翻弄される運命であったことが明らかになった。

マリア・スクウォドフスカ=キュリー(1867 - 1934年)
生年月日:1867年11月7日

■1867年11月7日に生まれたキュリー夫人

 

 まずは、自然界での役割を表す重要な場所、日柱の干支を使って読み解いていく。

〇日柱の干支:「辛卯」(かのとう)

 これは「春」の「ダイヤモンド」を表す。「辛(かのと)」は、ダイヤモンドや宝石を意味するが、もともとは石である原石を磨くことによってキラキラ輝くダイヤモンドになるように、「辛」の人は他の人に比べて苦労が多いのが特徴。しかし、その苦労に耐える強さを持っている。

 今でこそ男女平等や女性の社会進出が唱えられているが、キュリー夫人が活躍したのは今から100年以上前。男尊女卑が当たり前で働く女性が珍しかった当時、科学者として活躍するには相当な苦労があったことが予想される。さらに当時、祖国・ポーランドは、周りの強国に支配され、自由が許されていなかった。女性の高等教育が法律で禁止され、ポーランド人というだけで差別を受けた。

 そんなキュリー夫人が研究者になるまでも長い長い道のりがあった。ギムナジウムを卒業後、ワルシャワ大学への進学を希望するも叶わず、唯一女子学生の入学を認めていたポーランドの教育機関・フライング大学(さまよえる大学)に進学。(←摘発を恐れて常に場所を変えていたことからこの名が付いた)その後勉強を続けるには海外に留学するしか手はなく、学業の傍ら留学費を稼ぐために家庭教師のアルバイトに明け暮れた。パリに住む姉を頼って何とかソルボンヌ大学に入学することができたが、貧乏生活で食事も満足にとれずに何度も倒れ、その度医師である姉に診てもらっていたという。学位をとるまでだけを見てもこれだけの苦労がある。その後、夫を突然の事故で亡くしたり、スキャンダルに巻き込まれたりと、苦労は生涯にわたって続くわけだが…そんな語り切れないほどの苦労を重ねたからこそ最終的に偉大な科学者になるに至ったのだ。まさに苦労がキュリー夫人を作り上げたと言っても過言ではない。

 続いて、通変星、蔵干通変星からキュリー夫人の性格を読み解いていく。通変星、蔵干通変星をわかりやすく円グラフに表すと下記のようになる。

 

知性…様々な分野の知識が豊富で、何かを学ぶことに喜びを感じる。頭の回転が速く物事を論理的に捉えることが上手

行動力…頭で考えるよりも行動で結果を出す。未知の分野に挑戦する意欲が強く、交渉力や営業力を磨けば成功できる

人脈…さりげない気配りができて誰とでも仲良くなれる。サービス精神が旺盛でコミュニケーション能力も高く人を動かせる。

自立心…他人に依存することなく、自分が信じた道を突き進む強い精神性。リーダーシップを発揮しフリーで活躍できる。

遊び心…楽しいことを企画する等、生活に遊びを取り入れることが自然とできる。芸術面の才能があり、表現力が豊富。

【人物メモ】

〇人脈40%(偏財2つ)

 人脈は、気遣いができて誰とでもコミュニケーションが取れる星。中でも「偏財(へんざい)」は、様々な人脈を手に入れることができる。いい人でNoと言えないお人よしのため、人に翻弄されやすい。

 功績だけ見れば、順風満帆な生活を送ったかのように思えるが、キュリー夫人の人生は、人に翻弄され続けたと言っても過言ではあるまい。学士号を取得した後の1894年ピエール・キュリーと出会った。ピエールの強烈なプロポーズが功を奏し、27歳で結婚。その後、彼と二人三脚で研究を行い、1903年2人でノーベル賞を受賞する。2人はノーベル賞夫婦として注目されるが…その3年後、夫ピエールが荷馬車に轢かれ死亡するという不幸が彼女を襲った。即死だった。それは皮肉にも、朝に些細な夫婦喧嘩があった日だったという。当時キュリー夫人は38歳。未亡人として余生を送るにはあまりに早かった。キュリー夫人は錯乱状態に陥った。隠しておいた血まみれの夫の衣服を暖炉の火にくべようとした時、キュリー夫人はそこに、こびりついている腐った脳髄を見つけ、それに口づけをし始めたのだ。姉は必至でキュリー夫人を引き離し、炎に投げ入れた。キュリー夫人はどん底の中でこのような言葉を残している。「ショックで打ちのめされて、未来に向き合う気力さえなかった。それでも私は夫が生前よく言っていたこと、自分がいなくなっても研究は絶対続けなきゃならないという言葉を忘れることはできなかった」キュリー夫人はすぐに復職。残された娘を養いながら夫のポジションを受け継ぎ、ソルボンヌ大学理学部でフランス初の女性大学教授に就任した。

 しかし、そんなキュリー夫人に、次に立ちはだかったのがスキャンダル。40代半ば、キュリー夫人は、夫の弟子で、年下の科学者・ポール・ランジュヴァンと近しい関係になっていった。しかし、ポールには妻子がいたのである。とはいえ、もともとポールは浮気癖があり、奥さんとも疎遠になっていたはずなのだが、これまで浮気に目をつぶってきた奥さんもなぜかキュリー夫人に対して風当たりが強かった。ポールの妻・ジャンヌが、キュリー夫人からの手紙を見つけたことでとたんに大騒動に。「別れないとマスコミにバラすから!」と言い、結局その手紙はマスコミの手へ渡り、ビッグスキャンダルとして新聞の見出しを飾ることになった。「フランス人家庭をこわした悪い外国人女」と、あることないことを書かれ、このいざこざはキュリー夫人の精神をずたずたにした。そんな中、キュリー夫人は「ラジウムの発見」によりノーベル化学賞の受賞を果たす。スキャンダルから混乱を恐れ、授賞式への出席も取りやめるように申し入れがあったが、世間の目をよそに出席。亡き夫との役割分担を明らかにし、夫への感謝と称賛を述べたという。ちなみに、この裏には「批判なんて気にするな」とキュリー夫人を擁護するアインシュタインの力強い存在があったという。

 以上のように、キュリー夫人は人にも恵まれたが、人に翻弄される…そんな人生を歩んだようだ。ちなみに、このいざこざの中、ポールは常に逃げ腰で最終的に彼とは別れ、ジャンヌのもとに戻っていったという。しかし、その後も浮気を繰り返し、ついに教え子との間に子どもまで作ったそうだ。とんでもない男に捕まってしまうあたり、キュリー夫人はお人よしでいい人だったのだろう。

 なお、ポールとジャンヌの孫とキュリー夫妻の孫がその後、結婚することになる。その時、唯一生き残っていたジャンヌはこれを快く受け入れた。ご縁とはわからないものだ…

※「偏財」+「絶」=だまされやすい