戦艦「大和」の生涯は、太平洋戦争とその後の大日本帝国の運命を表すかのような軌跡を遺した。戦後の復興に「大和」を作り上げた技術が至る所で「応用」されていること。日本の平和に別の形で寄与されていることは忘れてはならない。福田海軍技術中将の回顧録である。(原勝洋 編著『戦艦大和建造秘録 完全復刻改訂版』より引用)

◼️戦艦「大和」進水

 いよいよ数年前までプールに浮んだ単なる蝋細工だったものが、今はとてつもない大きさで戦艦「大和」は海に浮んだのである。この帝国海軍史上最大のショーに、機密保持のためとは言え、わずかの限られた関係者だけしか見物する者がなかったのは、「武蔵」自身にとって、残念だった。平時ならこれ程の大艦は10万人以上の人出とその歓声に祝福されずにはいなかったろう。
  それが、「軍艦マーチ」も奏されなかったのだから、思えば日陰者の生涯を宿命づけられていたのかもしれない。人間なら、さしずめこれに当てつけた、といえば適当なところだろうが、「武蔵」は進水時排水の勢いで長崎港内に高潮を起さしめ、対岸の人家に床上浸水させたり、ドブ川の水位を上げてこれを見てくれと言わんばかりに付近の住民を驚かせたようである。妙に聞こえるだろうが、我々はこれを後で知って、いまさらながら我が子「武蔵」の巨大さに感じ入ったものだ。
 進水式を終えると棹尾の勢いで艤装工事が急がれた。機械類、エンジン、主副砲その他が次々と積み込まれて、軍艦としての体裁が着々整えられてゆく。

◼️「大和」の勇姿に技術者としての万感の思い

 昭和16(1941)年12月、ついに「大和」が竣工した。どこまで皮肉に出来ているのか、太平洋戦争の前夜にようやく一人前になったのである。
「軍艦マーチ」がこれのためにこそ作られた、といいたいような豪快な勇姿。試運転に同乗しようとして、初めて徳山沖で「大和」の元服姿を見た時、私は止めどなく涙が出て仕方なかった。

全力公試時の大和。面舵(右)に回頭して速力測定針路に入るところ。1941(昭和16)年10月30日、宿毛沖標柱間で撮影。

 それは造船技術者でなければ、「大和」の建造に従事した者でなければ分からない激情だ、と言ったら僣越であろうか。

「大和」はあたかも大地に根を据えた建造物の如くに毅然として碇泊している。公試排水量6万8200トン、長さ「263メートル」、これはおよそ「東京駅」の端から端までの長さだ。これに要した鋼鉄の量は、東京から大阪までの鉄道線路に等しく、この船を動かす「15万馬力」という力は東海道線を走る機関車の、60車分の推進力である。

 さらにこれを1隻建造するに要した費用は、今の物価で「1000億円」であるから、優に「国費の10分の1」、完成するまでに要した延人員は「1500万人」で、日本人口の5分の1という計算になる。

◼️壮大な巨砲試射

 こうして国力を傾けた戦艦「大和」は、まさに試運転に乗出そうとしているところだった。私は平賀博士と共に乗艦して、速力テスト、大砲試射などに立会うことになっていた。
 やがて「大和」は瀬戸内海の紺碧の水をわけて、全速運転を始めた。快調そのもの、遠く、靄にかすむ島影が確実に取残されてゆくのが、はっきりと分かる。
 砲熕の公試発射になり、第一砲塔の主砲が一門黒光りした頭を擡げたと思うと轟音が天に冲した。あたかも自分自身に贈る祝砲でもあるかのように。これを合図に続いて一門、さらに一門と、巨大な怪物の触手のような「46サンチ砲」の順を追っての猛烈な試射である。最後に全砲塔の全主砲が一列に並んで一斉に試射された時、船はいささかもゆるがぬ頼もしさだった。

◼️技術は一日にして成らぬ

 この試運転を終って、「大和」が連合艦隊に編入されるべく呉に帰港したのが、12月8日、開戦の詔勅が下った丁度その日である。そして、皮肉なことに、「大和」はその日以来、戦列に加わりながら、ついに敵艦に対して46サンチ砲の偉力を示す機会に恵まれなかった。

1945(昭和20)年4月6日深夜、上空9000メートルの位置から「大和」の沖縄特攻への姿をとらえた写真。山口県徳山湾口粭島宮ノ鼻沖岩島灯台沖198度3.8km


 前述した如く、「大和」の対空防備は、我々の最も腐心したものの一つだった。ただ、現実は予想よりもはるかに厳しかったのだ、というより他はない。
 といって、「大和」が、かつてみられぬ科学技術の結集であり、おそらく今でも例の少ない優秀艦であった事実にはいささかも変りはない、と私は思う。 
 戦争も我が方に一日一日歩が悪くなったころ、私は久し振りで「大和」艦上に山本五十六大将を訪ねたことがある。大将は私を司令長官室に招じ入れると、
「どうだい、今時、珍しいだろう」
 といって羊羹をすすめ、
「しかし、いい船が出来たものだ。この船さえあれば、わしは絶対に戦さに勝ってみせる」
 と言い、はゝゝゝと剛愎な哄笑をした。

福田啓二(1890〜1964) 「大和」型戦艦の基本計画主務者で、海軍艦政本部第四部計画主任としてその設計に心血を注いだ。第四部長を経て敗戦時は同本部技術監、海軍技術中将

 私は、日本が、連合艦隊をこの尊敬すべき英雄に預けていることを頼もしく思うと共に、昔は建艦に疑念を抱いていたこの人をして、今は感嘆せしめる「大和」そのものにも頼もしさを増した、そのことを今でもよく覚えている。

 技術というものは一日にして成るものではない。突飛な飛躍的な進歩というものは技術の世界にはあり得ないのである。「大和」はそのいい例で、もし我々の先輩の遺産がなかったら、かれはこの世に生まれなかったかも知れない。不沈艦は沈んだ。しかし、その技術は亡びてはならないし、また亡ぼさせてはならないのである。