戦艦「大和」がいよいよ大海に進水する日が来た。呉海軍工廠で2年の月日をかけて世界最強の「大和」が完成する。福田啓二海軍技術中将の興奮の息遣いが聞こえてくるようだ。山本五十六海軍航空本部長の「戦艦不要論」に対する設計者としての福田氏の矜持も読み取れるだろう。(原勝洋 編著『戦艦大和建造秘録 完全復刻改訂版』より引用)
戦艦「大和」「武蔵」が進水したのは、太平洋戦争がはじまる1年前の昭和15(1940)年。当時の政府歳入約30億円(1937年)の10%を占める巨大プロジェクトだったのだ。この後、戦争の暗雲が高まるにつれ、「臨時軍事特別会計」という「打出の小槌」に溺れていく財政の流れも出来てしまった。今流行りの「MMT」と訳が違うのは、戦争という財政支出の前提として「敗北」すれば、すべてを「失う」ことは、当時の日本人も知っていたのである。武張る「感情」を「勘定」する教訓。この、リスキーシフトする80年前の大日本帝国の意思に戦艦「大和」も位置付けられていることだけは忘れてはならない。

◇建艦に疑念を持つ山本五十六

 当時、航空本部長であった山本五十六少将が私のところへやってきて、
「どうも水を差すようですまんがね。君たち今は一生懸命やってるが、いずれ近いうちに失職するぜ。これからは海軍も空が大事で大艦巨砲は要らなくなると思う」
 と肩に手を掛けて言われたこともあった。とどのつまりは山本少将の言う通りの結果になったのである。

 しかし私はその時、技術者のプライドを持って昂然と少将に答えた。
「いや、そんなことはありません。私たちは絶対にとは言えないまでも、極めて沈みにくい船を造ってみせます。これだけの可能性を考えて設計しているのですから」
 といって「蜂の巣甲板」の話もしてみた。

 少将は、
「ウム、しかし……」
 と言われたきり、だまってしまわれた。今思えば、素手で白刃の中に飛び込んだ大和の末路を見はるかして居られたのであろうか。
  だが再三述べる如く、当時我々としては、「人事を尽くして天命を待つ」心境だったのである。すでに青写真は私たちの手を離れていた。サイは投げられたのだ。

 昭和13(1938)年、呉海軍工廠と三菱長崎造船所とで、今まで見たこともない雲突くような大型クレーンがうなり始めた。まず龍骨が置かれて、次第に我々の頭に描いていたものが尨大な空間に形造られてゆくのだった。

呉海軍工廠造船船渠。戦艦「大和」はこのドックで建造された。写真は1917(大正6)年、「長門」起工式時に撮影されたもの。「大和」建造に際して空前の巨艦だっただけに、事前にドックの改修が行われた。

 とくに呉の場合はドック建造だから船体は隠れてしまうが、長崎造船所の場合は、船台で船が組み立てられたから、「そのままでは、御覧下さい」と言わんばかりである。それゆえ、ここでは船台を棕櫚縄(シュロナワ)で地上200フィートの高さまで蔽った。これに使用した縄の総延長は2700キロメートルというから、東京長崎間の往復距離の2倍である。九州全土の棕櫚縄を使ったと言われるのもあながち誇張ではない。

  しかしその規模が大きければ大きい程、留意しなければならないのは、「機密保持」の問題である。この新型戦艦建造のことが分かると、アメリカでも物量に物を言わせてこれに対抗する戦艦を造ることは必定だ。だから、いざという時まで出来るだけ事実を隠しておきたい。

  46サンチ砲という大砲は世界最初の巨砲なので、これを九四式四十サンチ砲と呼びならわし「陸奥」や「長門」の搭載砲と同じ口径の新式砲であるかのように装った。
 また遠方から工事現場を眺望出来ないように監視所を設置して、始終スパイを監視していた。本文の読者の中にも、スパイと間違えられて迷惑した方がいるかもしれない。