■乙巳の変で姿を見せていない大海人皇子

天武・持統天皇陵

 事件現場を目撃した人間が、もっとも正面が証言をするとは限らない、その事件の当事者であれば、真相を秘匿することも考えられるからだ。
これに対し、事件から時間がたって現れた証言では、無視できないこともある。事件の真相をもみ消された被害者が、恨みつらみを引きずっていたとすれば、当然子々孫々に、事件の裏側を語り継ぐであろう。

『日本書紀』編纂時、朝堂を中耳っていたのは中臣鎌足の子の不比等で、『日本書紀』は藤原氏にとって都合のよい文書であった。だからこそ、中臣鎌足は古代の英雄として描かれていた。藤原氏の事実はしばらく続き、貴族社会が終焉した中世に出現した新証言を無視することはできないのである。 藤原政権下で、押しつぶされてきた声なき声が、一気に目を覚ましたと考えられるのである。

 実際、大海人皇子が中大兄皇子の兄で、漢の皇子であったとすれば、多くの謎が解けてくる。

 大海人皇子の前半生は謎に満ちている。乙巳の変に際して、中大兄皇子の兄と中臣鎌足は、「ひとりでも多くの味方を確保する必要がある」と発言しているが、なぜか「実の弟=大海人皇子」が思い浮かばなかったと見える。
乙巳の変で、大海人皇子はまったく姿を見せていない。これは不自然極まりない。それどころか、大海人皇子の前半生はは、まったく不明なのだ。

 大海人皇子がようやく、『日本書紀』に姿を現すのは、白村江の戦いののちのことも、天智天皇(中大兄皇子)と反りが合わなかった。藤原氏の伝承『藤氏家伝」によればある宴席で大海人皇子は床に槍を突き刺し、激怒した天智は、 大海人皇子を殺そうとしたという。

 天智は大海人皇子を皇太子に据えていたが、本心は息子の大友皇子の即位を願っていたようで、天昌天皇の崩御ののち、上手に大海人皇子は、皇位継承をめぐって対立し、壬申の乱が勃発する。この乱を制した大海人皇子が即位して天武天皇となる。 

 問題は、壬申の乱に際し、近江朝の蘇我系豪族がこぞって大海人皇子に加担し、大友皇子の敗北を決定づけていることである。

『聖徳太子は誰に殺された?』(ワニ文庫)より