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大名・久喜氏の面影を追う④三田界隈(4)三田城跡の壱

季節と時節でつづる戦国おりおり第374回

 心月院の高みを下り、東へすぐ。市立三田小学校があります。新しくこぎれいで上品なたたずまいです。その校門の横に、「三田城跡」の石碑。

 

 三田城は藩主・九鬼氏の本拠ですが、元々この地にあった車瀬城という古城の跡を利用したもので、当時は江戸幕府の禁令で新規の築城ができなかったため、城郭扱いではなく陣屋として利用されました。だから、三田藩九鬼家は城主ではなく「無城大名」「陣屋大名」と呼ばれる立場でした。

 これは元々志摩の鳥羽城主だった九鬼家の本家筋として屈辱的なことでしたが、三田九鬼家初代の久隆さんの兄で丹波綾部2万石に分封された隆季さんが兄弟の順では上位にあたるということで綾部城主の城持ち大名になり、石高の差を城の有無で埋めるという処置をとられた結果です。

 

 城(陣屋)跡のすぐ横には、「古城濠(ふるしろぼり)」という名の水路があります。

 この水路は北隣りの県立有馬高校の東側に沿って延びており、この有馬高校は三田陣屋の二の丸、かつて車瀬古城があった場所ということです。現・三田小学校の三田陣屋居館(本丸)との間には内堀がうがたれ、西の心月院の高みが要害化されて詰の城(つめのしろ。有事の際の拠点)となっていました。

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橋場 日月

はしば あきら

はしば・あきら/大阪府出身。古文書などの史料を駆使した独自のアプローチで、新たな史観を浮き彫りにする研究家兼作家。主な著作に『新説桶狭間合戦』(学研)、『地形で読み解く「真田三代」最強の秘密』(朝日新書)、『大判ビジュアル図解 大迫力!写真と絵でわかる日本史』(西東社)など。


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