要衝トブルクの陥落で攻勢の機会を得た「砂漠のキツネ」 |BEST TiMES(ベストタイムズ)

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要衝トブルクの陥落で攻勢の機会を得た「砂漠のキツネ」

北アフリカ戦線の命運を決した戦い

■ロンメル将軍とドイツ・アフリカ軍団の快進撃

写真を拡大 前線で指揮を執るエルヴィン・ロンメル。おそらくトブルク攻略戦での様子。連合軍から「砂漠のキツネ」と呼ばれ恐れられたが、この渾名の由来は、エジプトで創設されたイギリス第7機甲師団がゼルボア(サバクトビネズミ)を師団標識としており、その捕食者が砂漠のキツネだからである。

 

 1940年6月10日、イタリアの統領(ドゥーチェ)ベニト・ムッソリーニは、連戦連勝の盟友ドイツの有様に触発されて連合国に参戦。そして同年9月13日、イタリア領リビアからイギリス領エジプトに向けて大攻勢を開始した。

「いにしえのローマ帝国の武勇の血を受け継ぐ獅子の民たちよ、今こそ立ち上がり大帝国の再興をはたすのだ!」

 しかし現実の戦況は、かようなムッソリーニの演説の勢いとは裏腹だった。エジプトに駐留するイギリス中東派遣軍は寡兵ながら善戦。侵攻したイタリア軍を追い返すのみならず、敗走する同軍を追って、逆にリビアへと攻め込んだのである。

 イタリアが勝手に始めた北アフリカの戦いで、もし同国が敗れたら、チャーチル言うところの「ヨーロッパの柔らかな下腹」である同国から北上する形での連合軍の反攻を招きかねない。この事態を懸念したドイツ総統(フューラー)アドルフ・ヒトラーは、腹心のエルヴィン・ロンメル上級大将率いるドイツ・アフリカ軍団を派兵し、イタリア軍に梃入れした。

 つまり簡単に言えば、第二大戦緒戦でのドイツの勝ちっぷりに便乗し「おこぼれにあずかろうとした」イタリアが、北アフリカの自国領土拡大を目論んで参戦したが、イギリスに返り討ちにされてしまった。ドイツにしてみれば、これを放っておくとやがてイタリア自体が連合国に手を上げてしまい、自国が南のイタリアから北上する形で攻撃される恐れが生じる。そこでやむを得ず、自国の側翼の情勢を安定させるために、イタリアの強欲で始まった北アフリカの戦いに加担せざるを得なくなったという構図である。

 こうして、やがて「砂漠のキツネ」の渾名で呼ばれることになるロンメル将軍とドイツ・アフリカ軍団の快進撃が始まることになった。だが、西方戦やバトル・オブ・ブリテンで苦戦にあえいでいたイギリスが一息つけるようになると、本国の危機が優先されていたため、それまでなおざりにされていた北アフリカ戦線への注力が始まった。

 しかしそのような流れの中で、イギリス軍にとり重要な補給拠点であり、難攻不落を誇った要衝の港湾都市トブルクが、1942年6月21日に陥落した。攻略開始後わずか1日で、ロンメルによって落とされたのである。ちなみに、港湾都市の長所は支配者が補給に利用できることであり、しかも集積されている補給物資も破壊が間に合わなければ鹵獲できるが、まさに彼はこの事態を現出させた。

「よし。これで物資も確保できたし、イタリア本土からの補給の受け入れもトブルクがあれば大丈夫だ。条件は揃ったぞ!」

 そこでロンメルは、間髪を入れずにエジプトに攻め込むことを考えた。トブルク陥落で及び腰になっているイギリス軍が立ち直る前に、一気呵成に攻勢をかけてしまおうというのだ。ヒトラーは信頼するロンメルの具申を受けてこれを承認。いよいよエル・アラメインの戦いが始まろうとしていた。
 

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白石 光

しらいし ひかる

戦史研究家。1969年、東京都生まれ。戦車、航空機、艦船などの兵器をはじめ、戦術、作戦に関する造詣も深い。主な著書に『図解マスター・戦車』(学研パブリック)、『真珠湾奇襲1941.12.8』(大日本絵画)など。


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