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無類の酒好き上杉謙信VS味噌にこだわった武田信玄

戦国武将は皆長生きだった!【和食の科学史⑨】

■領民の養生をはかった武田信玄

 当時の人は脳出血や脳梗塞を起こして後遺症が出ると、温泉に滞在して繰り返し入浴し、回復につとめました。現在の温泉はたいてい観光地のようになっていますが、もとは疲れを取り、病気を治療するための場所でした。これを湯治といい、一種の医療施設だったのです。室町時代になると各地の温泉の効能や適切な入りかたについて理解が進み、湯治するにあたっての注意書きを掲示する温泉もあらわれました。

 戦国大名はみずからの領地に温泉をもうけ、戦でケガをした武士を療養させたと伝えられています。とくに有名なのが謙信のライバル、武田信玄の「隠し湯」です。みずからも温泉好きだった信玄は、温泉や、水温が低い鉱泉を熱心に探しました。武士だけでなく、城下町を整備した職人さん、鉱山で採掘にあたった労働者たちにも利用させたといわれています。

 信玄が治める甲斐の国は海から遠く、塩を手に入れるのに苦労していました。人は塩がなければ生きていけません。しかたなく、太平洋に面する駿河と相模から塩を買っていましたが、あるとき同盟関係のこじれから、塩の供給を止められてしまいました。いわゆる塩飢饉です。現代なら、さしずめ石油の禁輸でしょう。図9に当時の勢力図をのせました。

図9 1568年ごろの戦国大名勢力図 塩飢饉のころの勢力図です。信玄の領地は内陸で、塩の入手に苦労していました。また、周囲を強敵に囲まれ、上洛への道はけわしいものでした。作図/植本 勇

 この騒動を知った上杉謙信が、「戦いは兵力をもって行うもの。自分は塩で相手を屈服させるようなことはしない」と述べて、日本海の塩をすぐさま信玄に送った話は有名です。苦しむ敵に救いの手を差し伸べることを意味する「敵に塩を送る」という言葉は、この故事から生まれました。

 謙信らしいエピソードですが、実際には越後の塩は以前から甲斐で販売されており、謙信が他の大名と同調するのをきらって、塩の販売を止めなかったのが真相のようです。いずれにしても、この事件を通じて、命を支える塩の入手を他国に依存するのがどんなに危険か、信玄は痛感したことでしょう。

 そこで信玄は味噌に目をつけました。信玄の領地は大豆の産地で、山国の涼しい気候は味噌作りに適しています。たくさん作って保存しておけば塩分に不自由しませんし、塩そのものを摂取するより養生に役立ちます。大豆を発酵させて作る味噌には、質の良い植物性蛋白質に加えて、アミノ酸、ビタミン、そしてカリウム、マグネシウムなどのミネラルが豊富に含まれているからです。

 当時の兵法書にも、「味噌が切れれば、米なきよりくたびれるものなり(米が不足するより、味噌が不足するほうが体にこたえる)」と書かれており、どの武将も戦には必ず味噌を持参していました。味噌をそのまま持ち歩くと鮮度が落ちるため、よく使われたのが、図10に描いた「芋がら縄」です。里芋の茎にあたる部分を乾燥させて縄のように編み、味噌、酒、鰹節をしみこませたもので、しっかり干すと保存がききます。

図10 芋がら縄 芋がら縄の材料は里芋の茎にあたる部分です。普段は縄として使い、刻んで湯に入れれば味噌汁になり、水がなければ、かじって塩分を補給することができました。イラスト:佐藤正

 実際に縄として使うこともできるうえに、刻んでお湯に入れれば里芋の茎が具になった即席の味噌汁になりました。味がちょっと薄そうですが、実際はどうだったのでしょうか。

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奥田 昌子

内科医、著述家

京都大学大学院医学研究科修了。内科医。京都大学博士(医学)。愛知県出身。博士課程にて基礎研究に従事。生命とは何か、健康とは何かを考えるなかで予防医学の理念にひかれ、健診ならびに人間ドック実施機関で20万人以上の診察にあたる。人間ドック認定医。著書に『欧米人とはこんなに違った 日本人の「体質」』(講談社)、『内臓脂肪を最速で落とす』(幻冬舎)、『実はこんなに間違っていた! 日本人の健康法』(大和書房)などがある。


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