デザイナーとして大事なことは全て「東電広告」で教わった【斉藤啓】
どーしたって装丁GUY 第3回
20代にして年収6000万円を稼ぎ、イケイケだった広告デザイナーはその後、終わりのない不況と業界の斜陽に巻き込まれ、のたうち回ることに。装丁家の斉藤啓氏が、その「想定外」な仕事人生を描きおろしイラストとともにつづる連載コラム。第3回は、大学をドロップアウトして大ピンチの斉藤少年を救った、広告代理店での仕事を振り返る。
■バブルのド真ん中へ
1988年、バブル真っ盛りの渋谷。
3年後にはあっけなくハジける運命とは誰1人露知らず、今宵も街はきらめくパッションフルーツ。ヤンエグと渋カジと制服ジョシコーセーの群れを掻き分け、ひっきりなしにカップルが出入りする円山町のラブホ街をすり抜け、神泉へ。ある広告代理店のビルに辿り着く。
ここは東電広告。
社名の通り東京電力の子会社の広告代理店。なんでも昭和初期に電柱に巻きつける広告枠の販売からスタートしたんだそうな。社員500名を擁するどんと立派なビル構えで、窓という窓が昼光色にギラギラ光る。それを見上げて「はぁーこれがバブル景気ってやつかい?」とひとり嘆息するぼく。
ムサビ中退後、親からの仕送りはあえなく打ち切られ…バイトでかろうじて生命を維持、あとはボロアポートで絵を描くほかやることがない19歳のぼくにはバブルの恩恵など一切ナシの万年金欠プータロー。
画材店のバイトで知り合った女子みっちゃんが女子美術大学(短大の彫刻科)を卒業後ここに入社しており、あまりの多忙さに「ネコの手も借りたい!」といきなり上司に助っ人招聘を進言。結果、ヒマをモテ余しているぼくに白羽の矢的な何かが立ったとゆうわけ。
ちなみに今も昔も広告代理店といえば電通と博報堂が有名ですが、“高価なモノから売れてゆく”タガが外れた好景気に乗っかって有名無名・規模の大小を問わず、数々の広告代理店が雨後のタケノコのごとく設立ラッシュ。広告業界はピンからキリのカオス状態。
その一方、大企業も「そんな有象無象には負けん!」とばかりに広告代理店を自社抱えしているケースも少なくなく、それらはハウス・エージェンシーと呼ばれ、こちらも規模を拡大していました。サントリーにはサン・アド、三菱電機にアド・メルコ、JR東日本にジェイアール東日本企画、NTTにはNTTアドなどがあり、この東電広告もそのひとつ。