身体に値段がつけられる世界から逃げ出したくて。臆病な心を消したくて。私が決断したこと【神野藍】
神野藍 新連載「揺蕩と偏愛」#3
早稲田大学在学中にAV女優「渡辺まお」としてデビューし、人気を博すも大学卒業とともに現役を引退。その後、文筆家・タレント「神野藍」として活動し、初著書『私をほどく〜 AV女優「渡辺まお」回顧録〜』を上梓した。いったい自分は何者なのか? 「私」という存在を裸にするために、神野は言葉を紡ぎ続ける。新連載「揺蕩と偏愛」がスタート。#3「身体に値段がつけられる世界から逃げ出したくて。臆病な心を消したくて。私が決心したこと」

#3 身体に値段がつけられる世界から逃げ出したくて。臆病な心を消したくて。私が決断したこと
小さな刃物で浅く裂かれ、鋭い針で静かに突き刺されるような、形容しがたい痛みが走る。もし大きなくしゃみをしたら、どうなるのだろう。そんな馬鹿な想像をしながらシングルベッドに満たない施術台の上でじっと息を潜める。仰向けに横たわる姿勢では、刻まれていく線の行方が見えない。ただ、じわじわと熱が染み込むような感覚だけが、確実に積み重なっていく。単調な振動音が狭い空間に低く響く。痛みのリズムを刻むように、規則的な音が続く。
どうか、私の業を。
一つ一つの線が思い描いた姿となるまで静かに祈りながら、私はとある一節を思い出していた。ずっと昔から、私の背中を押してくれた物語の一節を。
「己はお前をほんとうの美しい女にする為めに、刺青の中へ己の魂をうち込んだのだ、(中略)もう今からはお前はもう今迄のような臆病な心は持って居ないのだ。」
「親方、私はもう今迄のような臆病な心を、さらりと捨ててしまいました。—お前さんは真先に私の肥料になったんだねえ」と、女は剣のような瞳を輝かした。その耳には凱歌の声がひびいて居た。
(谷崎潤一郎『刺青』)
臆病な心は、これで本当に消えてくれるのか。いや、私の中から消すと誓ったからこそ今ここにいる。こうして無意味な自問自答を繰り返す傍らで、外部から与えられてきた痛みは目にみえる姿となって刻まれていく。普段太陽があたらない真っ白な部分は少しずつ真っ黒に染め上げられていく。
機械の振動がぴたりと止まる。滲んだ血を拭われ、赤く腫れた肌に消毒液が落とされる。目の前にいる人間に促されるまま、狭い台から降りて、大きな鏡の前に立つ。正面を向き、衣服を捲り上げたとき思わず息を漏らしてしまった。鏡の向こう側には思い描いた通りの私が写っていた。でも、思い描いた通りのはずなのに、胸の奥が妙にざわつく。この黒い線は、これからの私のすべてを変えていくのか。もう後戻りはできない。私は確かに決断したのだ。
私は、私のことが怖い。何かの拍子で制御できなくなり、ふっと悪い方に飛び降りてしまうのではないかと思ってしまう。これまでもそんな瞬間は幾度となくあった。
信念なんて、状況ひとつで簡単に揺らぐ。置かれた場所、追い詰められた環境、何かの要因で人は簡単に裏切るし、大事なものを放り出す。それが人の本質だと何度も見せつけられてきた。大事なもののために何かを放り出すことも、裏切ることも、いとも容易い。
過去の私にも未来の私にさえも、自分というものを好きなように扱われたくない。私はこれまで、この身体をぞんざいに扱ってきた。率先して傷つくことを許し、差し出すことを許してきた。だからこそ、今ここで私のものにする。私が選び、私が刻む。あのとき差し出した身体に、今ようやく境界線が引かれた。
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「元エリートAV女優のリアルを綴った
とても貴重な、心強い書き手の登場です!」
作家・鈴木涼美さんも絶賛した衝撃エッセイが誕生
✴︎目次✴︎
はじめに
#1 すべての始まり
#2 脱出
#3 初撮影
#4 女優としてのタイムリミット
#5 精子とアイスクリーム
#6 「ここから早く帰りたい」
#7 東京でのはじまり
#8 私の家族
#9 空虚な幸福
#10 「一生をかけて後悔させてやる」
#11 発作
#12 AV女優になった理由
#13 セックスを売り物にするということ
#14 20万でセックスさせてくれませんか
#15 AV女優の出口は何もない荒野だ
#16 後悔のない人生の作り方
#17 刻まれた傷たち
#18 出演契約書
#19 善意の皮を被った欲の怪物たち
#20 彼女の存在
#21 「かわいそう」のシンボル
#22 私が殺したものたち
#23 28錠1シート
#24 無為
#25 近寄る死の気配
#26 帰りたがっている場所
#27 私との約束
#28 読書について1
#29 読書について2
#30 孤独にならなかった
#31 人生の新陳代謝
#32 「私を忘れて、幸せになるな」
#33 戦闘宣言
#34 「自衛しろ」と言われても
#35 セックスドール
#36 言葉の代わりとなるもの
#37 雪とふるさと
#38 苦痛を換金する
#39 暗い森を歩く
#40 業
#41 四度目の誕生日
#42 私を私たらしめるもの
#43 ここじゃないどこかに行きたかった
#44 進むために止まる
#45 「好きだからしょうがなかったんだ」
#46 欲しいものの正体
#47 あの子は馬鹿だから
#48 言葉を前にして
#49 私をほどく
#50 あの頃の私へ
おわりに