■容疑者は誰か? 推古天皇の場合の動機

写真を拡大 『聖徳太子伝記』覚什[他] 写本  国立国会図書館蔵

 そこで、最後の容疑者として推古天皇が登場する。この日本で最初の女帝は、数多くの容疑者のなかで、唯一、個人的に聖徳太子と敵対していた可能性のある人物でその理由は少々複雑だ。

 蘇我馬子が朝廷を独占していく過程で、推古天皇は蘇我氏に大いに利用されていたといわれている。『日本書紀』の記述にしたがえば、穴穂部皇子、宅部皇子といった蘇我氏と対立する皇子抹殺も、まだ天皇に即位する前の推古が、皇后という立場で命令して行われた。また、用明二年(五八七)の崇峻天皇擁立も、推古の後押しを得て成功したといわれている。  

 ところが、崇峻五年(五九)の馬子による崇峻天皇暗殺後、馬子と推古の関係は微妙なものになっていく。つまり厩戸皇子(聖徳太子)の即位をもくろむ馬子と、息子・竹田皇子擁立を願う推古の思惑が交差した可能性がある。

 ちなみに、竹田皇子と厩戸皇子のどちらに皇位継承の優先権があったかというと、厩戸皇子の父・用明天皇の異母兄(敏達天皇)の子である竹田皇子のほうが有力だったと一般的には考えられている。そしてその証拠に、序列を正確に記す「日本書紀』 には、用明二年(五八七)四月の、物部守屋討伐に参加した諸皇子のなかで、竹田皇子の名は厩戸皇子よりも先に登場している。

 そこで、厩戸皇子擁立を無理とみた馬子は、苦肉の策として推古女帝擁立に動き、竹田皇子・厩戸皇子双方の立太子問題を、一時棚上げしたのではないかとする指摘がある。

 

 それでは、なぜ厩戸皇子がのちに推古天皇のもとで皇太子になれたかというと、竹田皇子が天逝したためだとされる。というのも、竹田皇子の死亡日時について『日本書紀』は沈黙を守っているが、それまでのいきさつを考えた場合、白皇子の死が厩戸皇子立太子の直前と考えざるを得ないからである。
推古天皇は、竹田皇子と同じ墓に葬られたいと遺語を残している。死後も同じ墓に入りたいと願った推古の母親としての心情である。愛しいわが子を皇太子に据えることができなかった無念の情が、いつまでも頭のなかから離れなかったのだろう。

 しかし、もし万が一、竹田皇子存命中に厩戸皇子が立太子したとすれば(可能性がまったくないわけではない)、推古天皇が聖徳太子を暗殺したくなる動機が十分にあったといえるのではないか。

 さらに、もし推古が太子を暗殺したのだとすれば、のちの朝廷はこの事態を大王家の汚点として、闇に葬り去ってしまったと推測できるのだ。

〈『聖徳太子は誰に殺された?』〉より