■ただの小競り合い

 つまり、姉川の戦いは、単なる小競り合いなのです。そんなものが特筆大書され、未だに歴史教科書には必ず載っています。中学受験にも普通に出る、ということは、小学校でも教えられます。日本人は未だに三河武士団のプロパガンダに騙されている、の筆頭例でしょう。

 信長は第1次包囲網の中を戦っていきますが、結局、信玄が加わって第2次包囲網になった瞬間に大ピンチとなり、味方はもう家康だけ、という状況になります。それで、元亀3(1572)年の三方原の戦い(武田軍対徳川・織田軍)に援軍を回すことができずに、家康はあえなく大敗、ということになります。私は『並べて学べば面白すぎる 世界史と日本史』(KADOKAWA、2018年)にこんなことを書きました。

 近現代史の感覚でいえば、古代史どころか中世史、戦国時代の歴史だって「仮説の塊」です。なぜか最近は一次史料のごとく重用される『信長公記』など、現代の感覚でいえば「総理バンキシャ回顧録」の類です。武田信玄と徳川家康・織田信長のあいだで行なわれた三方ヶ原の合戦に至っては、完全に信頼できる記述など二行で終わりです。

 元亀三年十二月二十二日、三河国三方ヶ原で武田信玄が徳川家康と応援に来た織田信長の軍を破った。

 それ以外は、信憑性が決して高くない情報を精査し、仮説を組み立てているだけです。

 実は、三方原の戦いに関して確実に言えることはこれだけなのですが、本書は歴史学の本ではないので続けましょう。

 いちおう、通説として言われていることをまとめておきます。

 武田軍の大軍に相対した少数の徳川軍に信長は少数の援軍しか送れなかった、そこで家康は追撃して奇襲しようと思ったが、武田軍は三方原という台地で魚鱗の陣で待ち構えており、家康は陣を広げて対抗したけれども軽く屠られた、ということになります。

 しかし、実は信長は十分な援軍を送っていたというのが最近の研究です。ここは磯田道史氏の論を信じていいと思いますが、『日本史の内幕』(中公新書、2017年)で史料検討の結果「家康は信長から2万人に及ぶ援軍をうけていたことになる」としています。通説では3千人です。信長はちゃんと援軍を送っていたのに、家康が信玄より戦が下手だったので負けたのです。友達と腹の中に一物を抱えながらつきあい、そいつが死んでからは好き放題に書きまくった、ということになるでしょう。

 家康は命がけで三方原の戦場を離脱し、その際に脱糞までしたとか。その様子、NHK大河ドラマ『徳川家康』で滝田栄がリアルに再現していました。さらに、敗戦を自戒した家康が自分の姿を絵師に描かせた「顰像(しかみぞう)」が伝わっていますが、これもどうやら伝聞に伝聞が重なった噓ではないか、との説もあります。

神君・徳川家康

 とにもかくにも、「神君唯一の敗北」とされるのが、この戦です。確かに自分で戦って戦術的に負けたのはこの時だけかもしれませんが、小競り合いでは三河武士団はけっこう負けています。

 今川家は、永禄12(1569)年に完全滅亡します。今川氏真は桶狭間以降の劣勢を回復することができず、ジリジリと国土のすべてを奪われました。原因は一言で言えば、国防努力をしなかったからです。それでいて、下手に外交に頼りました。

 今川亡国の危機に、武田信玄のあまりに露骨な裏切りと侵略に、北条は武田と手切れをし、徳川・上杉と組みました。川中島で5度も戦った上杉はもちろん、北条だって、武田が旧今川領を併呑して強くなりすぎることなど望まないのです。氏真としては、そうした大国の思惑を利用したともいえます。

 しかし、しょせんは猿知恵です。

 自分の国を自分で守ろうとしない国は見捨てられるものです。

 有名な「敵に塩を送る」の故事は、この時に生まれました。北条と今川は、武田に経済封鎖を仕掛けます。山国の甲斐に塩を送らないようにしたのです。これに同盟国の上杉謙信が「戦は弓矢でするもの。民を苦しめるものではない」などと訳の分からないことを言い出し、甲斐に塩を送ります。にわかには信じがたい話ですが、北条・今川の経済封鎖が失敗し、上杉・武田の関係が急速に好転するのは歴史の事実です。また、上杉・北条同盟もあまりに利害が錯綜しすぎて機能せず、やがて北条は武田とヨリを戻します。

 誰も今川の運命に目を向ける者はいません。氏真は、北条氏康、ついで徳川家康に憐みのごとく居候させてもらうこととなります。それなりに世話になった今川家を家康が悪魔化しても、それはそれでお互い様のようなところもあるのです。

 さて、今川のくびきを脱した徳川ですが、今度は武田信玄の脅威に接しなければなりません。最初は織徳同盟と武田家は友好関係にあったのですが、徳川と武田が今川侵攻の際に敵対し、京都の信長が包囲されている形勢を見て、信玄は織田家との友誼を破棄します。