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いつ、誰が発案したのか? いまだ謎が残される改元秘話

元号をめぐる歴史ミステリー③

日本人が日常的に用いる元号だが、海外の人にとっては摩訶不思議な制度である。明治以降は天皇一代につき一元号と定められたが、古来にはさまざまな理由で改元が行われていた。今も謎のベールに包まれている改元の過程など、元号をめぐる歴史秘話をひもとく。

◆戦後の一時期、元号は法律による支えが存在せず

 

 カメラのフラッシュが激しく瞬くのと同時に、小渕恵三官房長官(当時)の「新しい元号は『平成』であります」という声が響き渡った。そして「平成」と墨書きされた奉書紙が収められた額縁が掲げられた。その瞬間、日本国民は新元号の「平成」を知る。しかもその墨書きはまだ乾ききっておらず、改元作業が慌ただしく進められたことを物語っていた。
『歴代天皇・年号事典』の編者で、当時、宮内庁書陵部編修課長だった米田雄介さんの下には多くのマスコミが訪ねて来て、新しい元号に関する情報を問い合わせてきた。​米田さんならば何かしらの情報を持っている。もしかすると米田さん自身も何か考えているのでは、と推測していたようだ。しかし「本当に何も知らなかった」という。「戦前までは内閣と宮内省が元号案を作って、それらをつき合わせて審議しました。私も宮内庁でそのポストに就いた時は、ちょっとは覚悟しましたが、在任中だった昭和54年(1979)に『元号法』ができたのです。以後、宮内庁は改元作業に関しては一切関わらなくなり、すべて内閣で決めることになりました」。
 第2次世界大戦後、大日本帝国憲法とともに旧皇室典範やその細則を定めていた登極令(とうきょくれい)が効力を失う。登極令は天皇の践祚(せんそ)即位礼、その他元号の勅定(ちょくじょう)などに関して規定されたものだ。戦後の昭和22年(1947)、これらに代わり新しい皇室典範が公布された。そこには元号に関する規定が存在しない。つまり戦後の一時期、元号は法律の支えがなかったのである。

 じつは昭和21年(1946)8月のGHQとの交渉の中で、元号の廃止に関する質問が出されていた。これに対して日本側は、元号を皇室典範ではなく一般国務法に規定したいと回答。そして同年11月8日に閣議決定されたものの、同月19日には撤回されている。その理由は、GHQ側が元号法の承認を渋ったからである。

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米田 雄介

よねだ ゆうすけ

1936年生まれ。大阪大大学院博士課程単位取得退学。1984年から92年まで宮内庁書稜部編修課長を務め、皇室制度史料の編修などに関わる。同庁正倉院事務所長、県立広島女子大教授、神戸女子大教授等を歴任。専門は日本古代史。文学博士。


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