いざ、決行の瞬間

 そして、時は1570年(元亀元年)5月19日を迎えます―――。
 決行現場に着いた善住坊は、火縄銃を片手に握りしめ、険しい峠の巨岩の陰に身を隠していました。どれくらい時が経ったでしょうか。善住坊の耳に、規律正しく行軍する兵士たちの足音が聞こえてきました。
 岩陰からわずかに身を乗り出して、音の正体を探る善住坊。
 その兵士たちの中に、ひときわ目立つ男の姿がありました。その男こそ、善住坊が仕留めるべき男でした。この時の信長の様相は伝わっていませんが、善住坊は仲間たちと共に、事前に信長の特徴を調べ上げていたと考えられます。

 善住坊はこの時、確実に仕留めるために、筒には2つの弾を込めていたといいます。これは「二つ弾」とも言われ、多くの火薬を必要とすることから「強薬(つよぐすり)」とも言われる特殊な狙撃方法でした。

 さて、ついに時が訪れます。
 善住坊は火が付いた火縄を火挟みに挟み、狙いの男に標準を合わせて火蓋を切ります。標的は行軍を進め、わずか12~13間(20数m)に近づきました。善住坊は集中力を極限まで高め、ついに、引き金を引きました。

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 激しい銃声と共に、2つの弾は標的を目がけて飛んで行きました。
 首尾は如何に!?
 この時の様子は『信長公記』に詳しく記されています。

「杉谷善住坊と申す者、<中略>千草山中にて鉄砲を相構え、<中略>信長公を差し向け、二つ玉にて打ち申し候。されど、天道照覧にて、御身に少しずつ打ちかすり、鰐の口(危機)を御遁れ候て、目出たく五月二十一日、濃州(美濃)岐阜御帰陣」

 飛ぶ鳥を撃ち落とす実力を持っていた善住坊ですが、放った2つの弾は信長を捉えることは出来ず、わずかにかすり傷を負わせただけでした。
 善住坊の暗殺計画は、こうして失敗に終わりました。

 狙撃現場からは何とか逃走した善住坊でしたが、その後は激怒した信長からの執拗な犯人捜しに追われました。捜索を逃れるために善住坊は、琵琶湖の西岸の近江の高島郡(滋賀県高島市)の阿弥陀寺に身を隠しました。
 しかし、追及の手から逃れることは出来ずに、信長の家臣で高島郡の領主である磯野員昌(いその・かずまさ)に発見されて捕縛されてしまいます。
 厳しい尋問の末に、善住坊を待っていたのは「鋸挽きの刑」でした。生きたまま首から上だけを出して埋められ、竹で作った鋸で時間をかけて首を斬られるという残忍な刑でした。
 善住坊は5日間ほど苦しんだ後、息を引き取ったといいます。

 善住坊を偲ぶ史跡はほとんどありませんが、三重県甲賀市の甲南町には善住坊が居住したと言われる「杉谷屋敷跡」があり、滋賀県東近江市の甲津畑町には善住坊が身を隠したと言われる「杉谷善住坊の隠れ岩」が現在まで伝わっています。

(『あの方を斬ったの…それがしです ~日本史の実行犯~』より)