短刀を購入し、演説会へ向かう

 遺書を風呂敷に包み、寄宿先の押し入れの中に置いた相原は、横須賀村を出立します。
 翌日の4月1日には、名古屋の古渡町(名古屋市中区)の古道具屋で、刃渡り9寸(約27cm)の短刀一振りを1円35銭(現在の価値で約2万7000円)で購入し、大門町(だいもんちょう)(名古屋市中村区)の寄席を見て、花園町(名古屋市中区)の貸座敷(遊女屋)を訪れた後に西魚町(にしうおちょう)(名古屋市中区)の宿に戻りました。
 翌2日は、師範学校の卒業生の親睦会があることを聞いて、同窓生に惜別のつもりで出席し、その場で軽い演説をして寄宿したといいます。
 翌3日は雨天だったために外出をせず、宿で新聞や雑誌などを読み耽っていました。
 この日、相原は板垣退助の動向についての情報を手に入れます。
 それは「自由党の岐阜での懇親会(演説会)は4月5日である」ということでした。

 4月4日の早朝に名古屋の宿を出た相原は、短刀を携えて、人力車に乗り込みました。枇杷島街道を通って清洲(愛知県清須市)に出て、間もなくすると一の宮(愛知県一宮市)に到着しました。そこで人力車を乗り換え、北方村(愛知県一宮市)を経て木曽川の渡しを渡って笠松(岐阜県笠松町)に着き、そこから岐阜に入りました。午後1時頃のことでした。
 懇親会を控えた岐阜の市中は、既に人でごった返していたといいます。

 岐阜に到着した相原は、懇親会の事務所があるという今泉村(岐阜県岐阜市)の旅宿の玉井屋を尋ねました。
 ここで相原は、自由党の支持者を装ったのでしょう、地元の政客たちと議論を交わし、懇親会の会場は、かつて岐阜城が建っていた、富茂登(とみもと)村の金華山(きんかざん)の西麓の中教院(ちゅうきょういん)だということが分かりました。しかも、相原は自由党の賛成員として参加することを許され、会費の1円を即座に納めて、懇親会の鑑札(かんさつ)(入場許可証)を手に入れることに成功しました。
 さらに、この日の宿は決まっていなかったことから、この玉井屋に宿泊することになっています。自由党関係者からすれば、同宿相手がまさか党首を狙う刺客だとは思いもしなかったことでしょう。

 翌5日、相原は宿を移しました。それは板垣退助やそれに付き従う関係者たちが玉井屋を宿所するためでした。
 午後1時頃に中今町の紙屋という宿に移った相原は、板垣退助がまだ岐阜に到着していないということを知ったため、時間を潰すため岐阜の市中を散策した後に伊奈波(いなば)神社に参詣して、境内入口の劇場の国豊座で芝居を観劇して、午後10時頃に帰宿しています。
 この日の内に、板垣退助は岐阜に到着しました。

 こうして時は、1882年(明治15年)4月6日を迎えます―――。
 早朝に旅宿を出た相原は、再び玉井屋を訪れました。板垣退助に面会を求めたものの、来客が非常に多く12時頃まで待ったが、なかなか順番が来なかったため面会を諦めています。
 相原はこの時、板垣退助を襲うつもりはなく、懇親会で刺殺するために板垣退助の容貌を知っておくために面会を求めていました。面会は叶わなかったものの、相原は板垣退助を目撃して、その容貌を目に焼き付けました。
「後刻また、お目にかかります」
 取り次ぎの者にそう言い残して、玉井屋を後にしました。

 旅宿を出た相原は、午後2時頃に会場の中教院に到着します。
 午後1時から始まっていた懇親会の参加者は、この時はまだ20名ほどだったのものの、3時頃になる時には多くの参加者が集まり、その人数は100名ほどになりました。そして、書生や政客などを引き連れて、ついに板垣退助が会場に姿を現わしました。
 会場に着席していた相原との距離は、3間余(約5.5m)でした。

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