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なぜ聖徳太子ではなく女帝推古が即位したのか

『日本書紀』が伝える聖徳太子の「本当の姿」に迫る!⑥

耳がよく聡明で、法隆寺を築き仏教を広め、推古女帝の摂政として活躍した人物──。聖徳太子に関する一般的なイメージはすべて『日本書紀』の記述が元になっている。『日本書紀』が書かれた過程を知れば、その真実の姿が見えてくる! 聖徳太子の実像に迫る連載。

平等寺 聖徳太子石像

◆20歳前後の聖徳太子には経験と実績が足りなかった!

 崇峻5年(592)11月、崇峻天皇は蘇我馬子の命をうけた刺客・東漢駒によって殺害された。この王権の未曾有の危機にあたって即位したのが我が国最初の女性天皇、推古天皇であった。有力な皇位継承資格者であった聖徳太子が即位せず、推古が立つことになったのはいったいどうしてだろうか。

 推古は欽明天皇の皇女であり、欽明の皇子たちが相次いで即位していた当時にあって、皇女の身分のままでは天皇になることはできなかった。
 なぜならば、この時代、皇女には基本的に皇位継承権がみとめられていなかったからである。しかし、彼女は異母兄にあたる敏達天皇の皇后にえらばれた。皇后は天皇の正妻というべき存在であり、敏達の時代に創始された地位であった。この皇后にもとめられたのは、天皇の後継者を生むこともさることながら、天皇に対する「しりへの政」、すなわち天皇の統治を後方から支える政治的な役割にほかならなかった。

 
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遠山 美都男

とおやま みつお

昭和32年(1957)、東京都生まれ。学習院大学文学部卒業。同大学大学院人文科学研究科博士後期課程中退。博士(史学)。著書に『聖徳太子の「謎」』(宝島社)、『日本書紀の虚構と史実』(洋泉社歴史新書y)など多数。


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