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新選組はどうやって潜伏先を見つけた? 池田屋事件の実相

幕末京都事件簿その②

幕末から明治初頭にかけて、志と信念を持つ者が次々と刃に、あるいは銃弾に倒れ、多くの血が流れた。それほど多くの命を踏み越えねば、明治維新は成り立たなかったのか。維新までの軌跡を、京都・霊山歴史館の木村武仁学芸課長のナビゲートで追っていく。今回取り上げるのは、新選組の名が知れ渡った「池田屋事件」(雑誌『一個人』2017年12月号より)。

◆新選組の完全なる佐幕化を決定づけた事件

 

「八月十八日の政変」によって、京を追われた長州藩と尊皇攘夷派の志士たちだったが、密かに京に戻りつつあった。新選組はこういった動きに目を光らせており、元治元年(1864)、4月頃、長州人250人が京都に潜入しているという情報を得た。局長の近藤勇が、市中を徹底的に探索させたところ、6月1日に肥後熊本の志士・宮部鼎蔵(ていぞう)の下僕を捕縛することに成功した。
「宮部鼎蔵も、京から追われていた一人でしたが、従者が京にいることで宮部も戻ってきている可能性が高いと判断したのでしょう」と霊山歴史館の木村さん。

 探索を続けるうちに、宮部の隠れ家の一つが、四条小橋西入ルの薪炭商・桝屋だと分かった。
 6月5日の朝、武田観柳斎ら8人の新選組隊士が、桝屋に踏み込み、主人の喜右衛門を捕縛して屯所に連行した。喜右衛門は口を割らなかったが、足首に縄をつけて梁に逆さ吊りにしたり、足の甲に五寸釘を打ち込むなど、凄惨な拷問を受けて、ついに自白する。
 喜右衛門は近江出身の志士で、本名を古高俊太郎といい、桝屋の養子となり、商人になりすまして倒幕派の計画に加わっていた。

 彼らの計画は、まさにクーデターだった。尊皇攘夷派が京の町に火をかけて、その混乱に乗じて、京都守護職の松平容保を暗殺し、孝明天皇を長州に連れ去るというおそるべき陰謀だったという。
 これを阻止するため、新選組は、密談場所の探索を始める。その頃の新選組は集団脱走があり、隊士は42人。うち、出動できたのは、34人のみだった。そこで近藤は会津藩に応援を頼むが、その会津藩がなかなか到着しない。

 近藤は34人の隊士を、まず、2つに分け、一隊を近藤、もう一隊を土方が率いることにした。
 近藤隊は沖田総司や永倉新八、藤堂平助ら10名、土方隊は、井上源三郎、原田左之助、斎藤一ら24名だった。土方は、さらに自分の隊を2つに分け、10名を井上が率いることになった。先斗町(ぽんとちょう)など鴨川の西側の探索を近藤隊が、鴨川の東側、縄手通り周辺を土方隊が担当し、四条通から三条通に向か
って北進した。

 
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木村 武仁

きむら たけひと

1973年京都府生まれ。霊山歴史館(幕末維新ミュージアム)学芸課長。専門は幕末・明治維新期における思想史と政治史。著書に「ようわかるぜよ!坂本龍馬」(京都新聞出版センター)、「図解で迫る西郷隆盛」(淡交社)。


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