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江戸無血開城、もう一人の功労者

西郷隆盛、その生涯と謎を追う ~江戸無血開城~

◆鉄舟との肚を割った会談が江戸無血開城を実現させた

 西郷は大久保とともに朝廷を仰ぐ形で新政府樹立を計画し、めどがついた12月9日に王政復古の大号令を発布した。しかし、小御所(こごしょ)会議で慶喜の辞官と領地返還を求めた西郷、大久保、岩倉具視(ともみ)らに、山内容堂や松平春嶽が反対。会議は紛糾したのだった。

「この時、西郷は『いざとなれば短刀1本あれば片付く』と言い放ち、反対派と刺し違える覚悟を示したといわれています。その結果、会議が再開すると容堂も春嶽も決議に従うことになり、王政復古が実現しました」。

 この頃、江戸では庄内藩を中心とした旧幕府軍が、薩摩藩邸を焼き討ちにする事件が起きていた。大政奉還に納得できない大坂駐屯中の旧幕府兵は、この事件がきっかけで「薩長討つべし」の気運が高まる。慶応4年(1868)1月、遂に鳥羽・伏見で両軍は激突。戦いは一進一退だったが、薩長軍が官軍の証「錦の御旗」を掲げると、旧幕府軍は戦意を喪失し、慶喜も江戸へ退却してしまう。そして3月15日には江戸城総攻撃が決定される。この時、陸軍総裁の勝海舟が西郷宛ての手紙を山岡鉄舟(てっしゅう)に持たせたとされている。しかし実際は、海舟は手紙を託したが、鉄舟は慶喜の意を受けた高橋泥舟(でいしゅう)の代理であったという。

 西郷がいた駿府まで、危険を顧みずに出向いてきた山岡に対し、西郷は江戸総攻撃を中止するための条件を7つ出した。その条件に対し、山岡は「慶喜を備前藩に預ける」という1点のみ拒絶。西郷は「朝命だ」と凄んだ。しかし鉄舟は「もし島津侯がその立場ならば、あなたはこの条件を受け入れないはず」と反論。江戸の民と主君の命を守るため、自らの命の危険も顧みず、敵陣へとやってきた鉄舟の心意気に西郷は感銘を受けた。慶喜の身の安全を保証したことで、奇跡的な江戸無血開城への道が開かれた。その後、西郷と勝が最終会談を行い、無血開城が実現したのである。

『一個人』2017年12月号「幕末・維新を巡る旅」より構成〉

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原口 泉

はらぐち いずみ

鹿児島大学名誉教授

志學館大学教授



鹿児島県立図書館館長。東京大学文学部国史学科、同大学院博士課程を修了。専門は日本の近世・近代史。NHK大河ドラマ「翔ぶが如く」「篤姫」「西郷どん」の時代考証を担当。『西郷どんとよばれた男』(NHK出版)『西郷隆盛53の謎 知っているようで知らない「せごどん」の真実』(海竜社)など著書多数。


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