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反ヒトラー派が「ワルキューレ」を修正しようとした理由

「ワルキューレ」作戦 ~ドイツ貴族将校団有志、独裁者ヒトラーを暗殺せよ!~ 第3回

「ワルキューレ」の修正と発動の権限を手に

 第10装甲師団の参謀長を務めていたシュタウフェンベルクは1943年4月7日、チュニジア戦において対地攻撃機の機銃掃射で右手首から先と左手の薬指と小指、さらに左目まで失う重傷を負い本国に送還された。しかし傷痍軍人として退役することを拒み、隻腕隻眼ながら復帰したばかりだった。
 着任後、シュタウフェンベルクはオルブリヒトとともに、莫大な人数の在ドイツ外国人労働者が反乱を起こした際の緊急対処計画「ワルキューレ」を極秘裡に修正し、ヒトラー暗殺成功後の国内制圧に利用しようと考えた。そして反ヒトラー派の主導層と、暗殺直後に通達する声明や命令文の起草に着手した。

 1944年5月、シュタウフェンベルクはまたしても反ヒトラー派の力添えで国内軍総司令官フリードリヒ・フロム上級大将の参謀長に就任。国内軍参謀長なら「ワルキューレ」の修正と発動に関する権限を持つからだ。しかし一方で、自身がヒトラー暗殺直後の最重要な時期にベントラー街のOKH司令部を留守にしていなければならないことと、日和見傾向が強いフロムの扱いを心配した。

「クラム」を譲り受けたシュタウフェンベルクは何度かの試行錯誤ののち、1944年7月15日、これを所持してヒトラー大本営「ヴォルフスシャンツェ」に出頭。このときは親友で参謀本部勤務のリッター・アルブレヒト・メルツ・フォン・クヴィルンハイム大佐が大手回しに「ワルキューレ」を発動したが、ヒトラーの「両腕」たるヒムラーとゲーリングが不在だったため暗殺は中止。後始末にオルブリヒトが、演習として「ワルキューレ」を発動したと説明することで事態を取り繕った。

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白石 光

しらいし ひかる

戦史研究家。1969年、東京都生まれ。戦車、航空機、艦船などの兵器をはじめ、戦術、作戦に関する造詣も深い。主な著書に『図解マスター・戦車』(学研パブリック)、『真珠湾奇襲1941.12.8』(大日本絵画)など。


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