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土方、五稜郭で散る!貫いた「武士道」

鬼の副長・土方歳三の生涯と美学 第8回

 

多摩の富農の4男として生まれた青年は、やがて新選組の「鬼の副長」となった。幕末の激流の中、敗戦を重ねてもなお闘い続けた男の滅びの美学とはいかなるものだったのか? その生涯と内面に迫る。

武士として戦い、そして散る……一発の銃弾が腹部を貫く!

 近藤勇が斬首となった頃、歳三は会津へ向かっていた。大鳥圭介の旧幕軍に合流して北関東を転戦していたが、宇都宮城の戦いで足を負傷し、会津へ後送されていたのだ。

 流山から会津入りを果たしていた新選組は、閏4月より白河口の戦いに加わるが、勝利を収めることはなかった。やがて歳三は戦線に復帰するが、8月21日には母成峠の戦いに敗れ、会津藩は籠城戦に突入する。

 歳三は援軍を求めて庄内藩へ向かうが、降意を固めていた米沢藩は領内の通行を許さず、馬首を返して仙台へと向かった。仙台には旧幕艦隊を率いた榎本武揚が上陸しており、仙台城での軍議の席で、榎本は歳三を奥羽列藩同盟軍の総督に推すが、実現はしなかった。

 そのころ、会津から転進してきた大鳥圭介の旧幕軍は、恭順を決した仙台藩を捨て、榎本らと合流して蝦夷地へと向かう。このとき歳三は進退を各自の自由に任せ、京都以来の隊士は20人ほどにまで減少してしまうが、かつての新選組ではないのだ。それでよかった。

 歳三は出立を前に松本良順に「快戦、国家に殉ぜんのみ」(『蘭疇自伝』)と告げていた。そこにあるのは、武士としての意地。勝算などはない。武士として戦い、そして散るという思いだった。

 蝦夷渡航後の11月、歳三は松前藩を攻略し、12月に入札によって旧幕軍の役員が選出され、歳三は陸軍奉行並に就任する。翌年3月には宮古湾での新政府艦・甲鉄の奪取作戦を展開するが30分の戦いで敗走した。次いで4月には新政府軍の上陸が敢行され、二股口に出陣した歳三は新政府軍を撃退することに成功した。

 戦いを終えて五稜郭に帰営した歳三は、市村鉄之助という16歳の隊士を呼んだ。慶応3年に兄とともに入隊したが、兄は前年3月に脱走し、1人で箱館まで従軍していた。いわば歳三の「小姓」である。その市村に、歳三は自身の写真と辞世を託し、箱館を脱して日野の佐藤彦五郎のもとへ向かうよう命じた。郷里へ遺品を届けたいという気持ちもあったろうが、それ以上に歳三は市村という若者を助けたかったに違いない。遺品を届けるだけであれば、ほかに方法はあったはずだ。あえて市村に命じたのは、それを第一に考えたためだったのでないだろうか。

 このときの市村の態度については伝わっていないが、遺品を預けられたからには、道中で何があっても無謀な真似はせず、無事に日野にたどりつき、佐藤家を訪れなければならない。歳三は、そう考えたのだろう。加えて、佐藤家であれば市村を保護してくれるはずである。

 歳三は路銀と、いざというときに換金できるよう2振の刀を預け、市村を外国船に乗せた。4月15日のことである。その3カ月後、市村は物乞いのような身なりで佐藤家を訪ね、使命を果たすことに成功している。そして佐藤家では3年間にわたって市村の身柄を預かり、その間に学問も授けたという。

 市村を見送った歳三は、再び二股口の戦場に戻り2度目の戦いでも陣を守った。『戦友姿絵』はこのころの歳三について、「生(性)質英才にして、あくまで剛直なりしが、年長ずるに従いて温和にして、人の帰すること赤子の母を慕うがごとし」と伝えている。京都で「鬼」となった歳三がその後、生来の自分を解放したことにより、誰からも慕われるようになっていたという意味にほかならない。

 5月11日、新政府軍の箱館総攻撃が始まった。歳三はわずかな兵を率いて出陣する。自分の人生に決着をつけるためだ。そして、一本木関門での指揮中、馬上の歳三の腹部を一発の銃弾が貫くのだった。

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菊地 明

きくち あきら

1951年東京都生まれ。日本大学芸術学部卒。新選組をテーマとした著書に『土方歳三日記』(ちくま学芸文庫)『新選組組長斎藤一』(PHP研究所)『新選組の新常識』(集英社新書)『沖田総司伝私記』(新人物往来社)等がある。


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