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本能寺の変はなぜ起きた? 原因の諸説を検証する

覇王・織田信長の死生観 第6回

 天下統一を目前に控えた織田信長は、
本能寺の変で突然の死を遂げた。
最期まで自ら槍を取り戦った信長の人生は
命知らずの破天荒なものだったのか?
信長は死をどのように捉えていたのか?
そして、ついに見つからなかった死体の行方は?
未だ謎多き信長の人生と死に迫る!

 

 本能寺の変の原因については、変が起こってから400年余りの間にいろいろと詮索されてきた。長い間に細かく分けると、何百という説が発表されているのである。それらを紹介して、簡単な批判を行ってみよう。

 江戸時代を通じて語られてきたのは「怨恨説」である。信長というのが非情・残忍な主君であり、虐めぬかれた光秀がついにたまりかねて謀反を起こしたというもの。この「怨恨説」は、ずっと20世紀中ごろまで主流として唱えられていた。怨恨の引き金となった「いじめ」はいろいろと伝えられている。ほとんどは他愛ないものだが、その中で、信長の違約によって人質に出していた母が殺されたという話と、現在の領地を取り上げられて 本能寺の変の原因については、変が起未征服の出雲・石見への国替えを命じられたという話の2つは、かなり広く信じられてきたようである。

 ところが、1950年代になって、戦国史の権威高柳光壽氏が、どの「怨恨説」も史料的裏付けに乏しいとして否定し、光秀も天下が欲しかったのだとする「野望説」を唱えた。ここで一時「怨恨説」の勢いは止まった形になった。そして、しばらく研究家に本能寺の変は取り上げられなくなっていった。

 本能寺の変の原因についての論議が再び活発になったのは、90年代になってからである。今度は、光秀は何者かに操られていた、という「黒幕(関与)説」が中心だった。

 朝廷黒幕説・足利義昭黒幕説・羽柴秀吉黒幕説・本願寺教如黒幕説等など。だがその多くは、史料の扱いの杜撰なまま構築された説、あるいは読者の興味に合わせただけのいいかげんな説であり、検討に値するのは、朝廷黒幕説及び義昭黒幕説の2つだけといえよう。

 信長は個性が強く強権的政治を行った政治家である。朝廷・幕府・ライバル・宗教勢力、たしかに誰が黒幕となっても不思議ではないだろう。こじつければ、それなりの理屈は成り立つのである。

 断定することはさしひかえるが、今のところ最も説得力があると思われるのは、やはり信長の四国政策の転換に対する光秀の反発とする説ではなかろうか。

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谷口 克広

たにぐち かつひろ

1943年、北海道生まれ。横浜国立大学卒業。戦国史研究家。織田信長研究の第一人者。主な著書に「織田信長家臣人名辞典」(吉川弘文館)、「信長と消えた家臣たちー失脚・粛清・謀反」(中公新書)など。


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