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信長との共闘で飛躍のチャンスを掴んだ苦労人・九鬼嘉隆

第二十七回 SAMURAIファイル 九鬼嘉隆

名古屋在住、日本大好きラジオDJクリス・グレンが語る、
日本が誇る錚々たる戦国武将たちの魅力。
外国人の目に我が国の英雄たちはどう映っているのか

 1542年、志摩国英虞郡(あごぐん / 現在の三重県志摩)に生まれ、海の街で育ったSAMURAI九鬼嘉隆。水軍と言えば九鬼、九鬼と言えば水軍と言われるほど、海での戦いに強いSAMURAIだ。

 そんな彼だが、若い頃は苦労もした。領地を奪われ逃亡生活も送っていた。
しかし、自らチャンスを見つける。そのチャンスとは・・・桶狭間の合戦で勝利し、勢いづいていた織田信長との出会いだ。まずは織田家に仕えていた滝川一益と親しくなり、その後、嘉隆は滝川のもとで織田家の家臣となった。自ら道を切り開いたのだ。

 1574年、伊勢長島でおきた一向一揆の際には、水軍として織田信長をサポート! 嘉隆、いきなりの大活躍! しかし、その2年後の1576年に起きた「第一次木津川口の戦い」では、敵の水軍・毛利軍に船を焼かれて大敗! 信長、激怒…。
「燃えない船をつくれ!」と信長から命令された嘉隆は、世界初と言われる鉄甲船をつくり、1578年の「第二次木津川口の戦い」では、毛利水軍600隻に見事勝利! 嘉隆、リベンジ! この功績は信長にも認められ、立派な大名となりました。やったね、嘉隆。

 信長亡き後は、信長の息子・信雄につかえるものの、豊臣秀吉側へ寝返ったり……。まぁ、いろいろありました。
 そして、最後は関ヶ原の合戦。義隆は西軍、息子・守隆はなんと東軍で戦うという悩ましいシチュエーションで戦うことに。これは、どちらが勝利をしても九鬼家を守るために考えられた、義隆の秘策だったのだそうだ。

 関ヶ原の合戦は、東軍勝利。なんとか父の命を守ろうと、家康に懇願する息子・守隆。それの願いを聞き入れた家康は、使者を義隆のもとに送るものの、時すでに遅し…。嘉隆、切腹。59歳だった。

 チャンス、チャレンジ、決断は、人生を、そして運命を大きく変える。
それは、昔も今も変わらないけれど、戦国武将たちの「まさに命がけ」の人生とは、やはり大きく違うのだと改めて思う。

 九鬼嘉隆。
 彼は幸せだったのだろうか・・・。
 当時のSAMURAIたち生き様を考えれば、僕の考えている決断なんてちっぽけなものなのかもしれないね。そんなことを思う年の瀬でした。

▲九鬼嘉隆が築城した、鳥羽城にて。
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クリス グレン

くりす ぐれん

オーストラリアと日本の両国で、デビューから現在まで、常に第一線で活躍し続けるラジオのプロフェッショナル!

幼少時から日本ファンで、17歳の日本留学以来、甲冑師に弟子入りするなど、熱心に日本文化を学んできた日本通。

趣味は戦国の歴史研究、城めぐり、甲冑武具の収集、古武道……など。


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