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話ができすぎ? 歌舞伎の題材にもなった「天下茶屋の仇討ち」とは

季節と時節でつづる戦国おりおり第299回

天下茶屋かいわい③天下茶屋の仇討ち

前回はこちら:天下茶屋かいわい②

 前回(連載第298回)、後回しにしておりました宝篋印塔(ほうきょういんとう)の件についてです。

 

 説明板にありますように、慶長14年(1609)、ここからすぐ南の場所で宇喜多家の旧臣・林源次郎が父の仇・当麻三郎右衛門を討ったという有名な「天下茶屋の仇討ち」にちなみ、後世供養のため建立されたものです。

 この事件は歌舞伎に取り上げられ『敵討天下茶屋聚(かたきうちてんがちゃやむら)』というタイトルで天明元年(1781)大坂で初演、文化13年(1816)江戸で初演されています。その間の文化11、12年にこの塔が建立されたのですから、これはあれでしょうね、江戸初演の宣伝と観光需要を当て込んでのゴニョゴニョ。

 ところでこの仇討ちの主役・源次郎の父は玄蕃といい、宇喜多秀家の重臣で、慶長5年(1600)9月2日に徳川家康に味方する家老・長船紀伊守の腹心・当麻三郎右衛門に殺害された、ということですが、これも不審です。紀伊守綱直は2年前に病死し、それが元で宇喜多家をまっぷたつに割る内紛が発生するからです。

 9月2日というのもおかしい。もうすでに関ヶ原合戦の前哨戦が各地で始まっている時期で、宇喜多家は総動員をかけ伊勢・美濃と移動している時期ですから、玄蕃が重臣であるならのんきにだまし討ちなどされている余裕などなく戦陣で甲冑姿になっていなければならないわけですし、同年の宇喜多家家臣団の人名録といわれる(後年作らしいですが)「宇喜多家分限帳」にも林という名字の人物は誰もいません。

 好意的にそういう名字の重臣が居たと仮定するなら、その名からして織田信長の家老だった林秀貞につらなる人物でしょうか。それが織田旧臣の縁で秀吉によって宇喜多家に送り込まれ、豊臣家からの目付け役的な任務を与えられ活動していた、と。それなら家中で孤立し、秀吉死後に謀殺されることだってあり得るし、何より家中に「林」一族がほかに誰もいないことも納得できます。

 その9年後に見事仇を討つという結末につきましては、三郎右衛門が秀頼・淀殿母子が住吉大社に参詣する際、大野治長の供として変名して従っていたものを、治長や片桐且元の協力も得て大願成就するという話になっており、ちょうどこのころから諸方の寺社の再建・復興をさかんにおこなうようになっていた秀頼母子もからめてくるあたり、良く出来た話になっているなと思いますね。

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橋場 日月

はしば あきら

はしば・あきら/大阪府出身。古文書などの史料を駆使した独自のアプローチで、新たな史観を浮き彫りにする研究家兼作家。主な著作に『新説桶狭間合戦』(学研)、『地形で読み解く「真田三代」最強の秘密』(朝日新書)、『大判ビジュアル図解 大迫力!写真と絵でわかる日本史』(西東社)など。


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