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戦国武将、“その後”の物語

季節と時節でつづる戦国おりおり第295回

【女優の野際陽子さん、死去。享年81歳。筆者の世代はなんといっても「キイハンター」での“姐御”と呼ばれるほど颯爽とした女探偵役が印象深いところですが、発病されてからも女優活動を続け、最期まで現役のままでいらっしゃったことは尊敬に値します。本当にお疲れ様でした、寂しくなりますよ。野際さんには人生の“その後”は無かったわけですが、本日は“その後”があったある戦国武将のお話。】

 今から431年前の天正14年5月4日(現在の暦で1586年6月20日、荒木村重が堺で死去する。享年数え52歳。

 天正6年(1578)織田信長から離反して本願寺・毛利家連合側に寝返った村重。その後、有岡城(伊丹城)に籠り続けたものの、頼みの援軍は来ず、1年後に妻子も家来も置いたまま尼崎城(大物城)へ逃げ、あげくの果てに有岡城に残した女房衆122人が見せしめのため虐殺され、村重の妻・だしら36人も京で処刑されるという大悲劇に見舞われても、村重は尼崎城から花隈城へと西に逃げて、最後は毛利家の下に亡命して保護を受けるに至っている。

大物城跡の一部といわれる場所に鎮座する大物主神社。

 その後、天正10年(1582)本能寺の変で信長が死ぬと、村重は臆面もなく畿内に戻って来る。ここから先の彼の姿を『イエズス会日本年報』で見てみると、

「荒木信濃は、その国を追われた後、日本全国を回歴し、堺に帰って剃髪して市民となり、商人の女を娶った。彼は茶の湯の道具を六千クルサドで羽柴に売り、今は彼に仕えて、小姓達と同じく茶を立てている」とある。

 毛利家から離れて諸国流浪した時期があったのかは分からないが、堺に住んで茶人となり、秀吉に御伽衆として仕えたのは間違いない。ちなみにクルサードはポルトガルの通貨で、1クルサードは1両相当だから6000両、1両10万円で換算すると6億円!だ。のち利休十哲のひとりにも挙げられるほどの彼だから、以前から茶道執心で名器を集めていたのだろう。

 その後村重は小西隆佐・行長父子を讒言したかどで秀吉の不興をかい、そのうえ彼が小牧・長久手合戦に関し秀吉を批判していたことも判明。村重は秀吉に殺されることを恐れて妻と家を捨て寺院に入り僧となった、と続く。小西行長らを落としいれようとしたというのは、両者に堺という共通点があるところから見ると、なんらかの利益相反があったのだろうか。

 彼の最期の地もまた堺だった、ということは「荒木氏系図」に「天正七年九月二日村重一族を断罪し泉州堺南宗寺に葬る」とあり、池田市の個人蔵史料、『荒木村重伝』にも「和泉堺浦で没」とある。同書には墓も「堺南宗寺に在り」と記されているが、現在南宗寺にはその形跡は残っていない。大坂の陣での焼亡とその後の移転によって、彼の墓は消滅してしまったのだろうか。彼にとっては、妻子を見捨てた過去をこそ、消去したかったところだろうが。

堺の南宗寺

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橋場 日月

はしば あきら

はしば・あきら/大阪府出身。古文書などの史料を駆使した独自のアプローチで、新たな史観を浮き彫りにする研究家兼作家。主な著作に『新説桶狭間合戦』(学研)、『地形で読み解く「真田三代」最強の秘密』(朝日新書)、『大判ビジュアル図解 大迫力!写真と絵でわかる日本史』(西東社)など。


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