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都市化によって破壊された、近世の城は今

外川淳の「城の搦め手」第14回

 徳川家康は、東海から関東への転封を豊臣秀吉から命じられると、信頼する家臣を各地に配置し、新領国の経営にあたらせたそして、関ヶ原合戦で勝利したのち、再配置が行われ、江戸城を中核とする城郭ネットワークが形作られることになる。だが、明治維新を迎えると、城は無用となり、近代から現代へと続く時代の潮流のなかで、都市化によって破壊され続けた。
 おもな関東の近世城郭を保存状態で分類すると、以下のようになる。

・本丸の大半が残存……江戸城・小田原城・佐倉城
・本丸の一部と本丸以外の曲輪が残存……宇都宮城・水戸城・川越城
・本丸が消滅し、本丸以外の曲輪が残存……岩槻城・古河城・館林城・前橋城・高崎城・忍城・岩槻城

佐倉城 馬出と水堀

 関東の近世城郭では、珍しく完全に近い形で遺構が伝わる。

 やはり、首都東京から近いだけ、関東では、都市化の影響を受け、城の中心である本丸までも、平面になってしまった例が多い。
 関東の城の場合、古地図と現代の地図や航空写真を比較すると、失われた部分と、土塁や堀などが残されたエリアとの差を判別することができる。このような作業は自身ですることも可能であるが、行政作成の発掘報告書、パンフレット、サイトなどで対比された図が紹介されている例もある。
 いずれにしろ、地図を手にしながら、関東の近世城郭を訪ねてみると、かつての城下町が都市化によって変貌したという事実を知ることができる。

 先日、本丸が完全に消滅した岩槻城を訪ねた。岩槻城の本丸・二の丸・三の丸の主要エリアは、都市化によって消滅。ガソリンスタンドの敷地内に本丸跡を示す石碑が立っている。その一方、新郭と称される出城としての色彩が強い一角には大規模な土塁と空堀が今日に伝えられる。新郭は岩槻公園となり、土塁と空堀のうち、東側は遊歩道として整備されている。

 西側については未整備で藪のような状態ではあるが、秀吉の小田原攻めに対処し、北条氏が急造したと思われる土塁と空堀が残される。残された新郭と、消滅した本丸との落差は、関東の近世城郭らしい状態ともいえる。
  ここで岩槻城を紹介したのは、ちょっとした前振りであり、その後の展開については、次回以降をご期待ください。

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外川 淳

とがわ じゅん

1963年、神奈川県生まれ。早稲田大学日本史学科卒。歴史雑誌の編集者を経て、現在、歴史アナリスト。



戦国時代から幕末維新まで、軍事史を得意分野とする。



著書『秀吉 戦国城盗り物語』『しぶとい戦国武将伝』『完全制覇 戦国合戦史』『早分かり戦国史』など。



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