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ファン、研究者を駆り立てる「源義経北行伝説」のロマン

「源義経北行伝説」の謎 第8回

長い逃避行を終え、奥州平泉の高館で非業の最期を遂げた義経。しかし、東北から北海道に至る各地には、死んだはずの義経が立ち寄ったという伝説が数多く残っている。時に英雄として、時に悪人として、時に女性を惑わす色男として、様々に残る「北行伝説」の実像に迫る!

義経が最期を迎えた、持仏堂の跡地に立つ「高舘義経堂」

江戸時代から連綿と続く
義経伝説の現在地

 第二次世界大戦後のことになるが、昭和33年(1958)推理小説作家高木彬光が『成吉思汗(ジンギスカン)の秘密』を発表して再び「義経=成吉思汗説」が話題になった。本書は戦前の小谷部説にいたるまでの経緯を大略踏まえているだけでなく、アームチェア・ディテクティブ(安楽椅子探偵)ならぬベッド・ディテクティブの傑作としても名高く、今なお読みつがれるロングセラーである。
「北行伝説」は本書によって歴史ミステリーとしてよみがえったといってもいい。そのことは、現在に到るまで、しばしばマスメディアが好奇の眼でもってこの伝説を取り上げていることと深く結びつく。

 また、高木とともに注目されるべきは佐々木勝三の活動であろう。佐々木は岩手県宮古市にあって、終戦後の早い時期から岩手・青森両県に分布する義経伝説の調査に取り組み、昭和32年(1957)『義経は生きていた』を刊行した。戦前の小谷部説を下敷きに、平泉から津軽半島に到る間の義経伝説伝承地をくまなく踏査し、義経北行の経路を推定した。いわば小谷部が引いたアウトライン(下書き)を丹念に清書したわけである。

 

 佐々木は、本書のあとがきに「源義経は、平泉で死なず、北方コースを採って、岩手県の海岸を北上し、宮古市や八戸市に滞留しさらに北上して、弁慶内・野内・浦町・安方・油川・十三港・三厩に至り、当時の日本の最北端の竜飛から、蝦夷が島へ渡ったということは、今まで述べてきた遺跡・遺物・事蹟によって証拠立てられたと、私は信じている」と記している。

 小谷部から佐々木に連なる義経不死説、義経=成吉思汗説にかける情熱のすさまじさには戦慄が走る。佐々木によって示された地図上の実線(コース)は、義経にまつわる伝承や証拠(真偽はともかく)とされる様々なモノとの相乗効果で、異論を挟む余地すらあたえない。

 一方、ディスカバージャパン、ふるさと再発見という名の国内観光促進がスタートしたのは昭和45年(1970)のことであった。昭和47年(1972)にはNHK大河ドラマで「新平家物語」が放映されてみちのく岩手県では義経ブームが再燃した。

 昭和48年(1973)、岩手県観光連盟は主として佐々木の成果を活用し「伝説義経北行コース」を設定した。パンフレットを作成し、関連する伝承地には地元の言い伝えなどを解説する掲示板や標柱、道標などが設置された。同様のことは青森でも行われたようだ。以来35年、三陸沿岸から遠野・宮古・八戸・津軽・竜飛崎までの誘客促進に有効な「アイテム(観光資源)」というのが、関係者にとって「北行伝説」の位置付けである。またこの「伝説」のロマンとミステリーは、いまだにマスメディアにとって格好の素材であり続けてもいる。

 そうした一方で時折目にするのが、今なお「義経北行」を自明の理とし「伝説」を信じ、大変な情熱を傾けて活動されている人々の姿である。彼らが追い求めているのは何だろう。小谷部や佐々木と同じように、仮託された義経の中に潜み蠢いているなにかが彼らを駆り立てているのだけは確かなようだ。

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千葉 信胤

ちば のぶたね

1962年、平泉文化遺産センター館長、岩手大学客員准教授。共著に『源義経流浪の勇者』所収「子どもの本と義経」(文英堂)、『義経展』所収「源義経の生涯」(NHK)『東アジアの平泉』所収「平泉民俗余話」(勉誠社)などがある。


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